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藤田嗣治による<モンパルナスのルパナール Lupanar à Montparnasse (Vers 1930)>。<モンパルナスのサロン Le salon à Montparnasse>とも。Musée du Petit Palais Genève 所蔵。
ルパナールは売春宿のこと。モンパルナスには最初の高級売春宿 Le Sphinx (maison close)が開業(1931-46) し、藤田嗣治等の画家や作家などが出入りした。
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藤田嗣治による<モンパルナスのルパナール Lupanar à Montparnasse (Vers 1930)>。<モンパルナスのサロン Le salon à Montparnasse>とも。Musée du Petit Palais Genève 所蔵。
ルパナールは売春宿のこと。モンパルナスには最初の高級売春宿 Le Sphinx (maison close)が開業(1931-46) し、藤田嗣治等の画家や作家などが出入りした。
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JR 宝塚線の宝塚から京都線の高槻行きに乗って乗り換えなしで新大阪に出た。
新大阪駅構内では行きつけだった浪花そば (エキマルシェ新大阪店)に <たこ焼きうどん>があったので食べてみた。朝食と” うを喜の磯巻きと海苔巻き” で満腹だったのだが・・
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JR 宝塚線 (福知山線) の宝塚駅との連絡通路からの阪急宝塚駅。<クレッシェンド Crescendo>と題した廃楽器のオブジェが左に見える。フランス人現代美術家 アルマン Arman (1928-2005) の作品。武庫川畔にはフランスの抽象彫刻家マルタ・パン Marta Pan (1923-2008) 作の<枠どられた風景>がある。
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長らく改修中だった大阪国際空港・ITAMIのターミナルがオープンしていた (2020.08.05) 。
空港内レストラン街の様子。左側の奥が左方にある JAL のバゲージクレームへの通路。
火を吹きながら帰還する日の丸機がもう一息のところで田圃に墜落する様に呆然とした記憶に始まる伊丹空港との思い出は多い。
* 来年夏のパリ行きチケット確保しました。
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修験道の開祖 役小角 (えんのおづぬ) / 役行者 (634-701) が修業(しゅうぎょう)し、弁財天の導きを受けて真理を悟った (658) と伝わる<箕面大滝>。
33m の名瀑。空海が修行(しゅぎょう)し、織田信長は観たという。
今回猿に出会わなかったのが不思議だった。
夜中に猿の軍団に取り囲まれて怖かった思い出もあるのだが・・
* 弁財天はセオリツヒメ、
役氏はニギハヤヒ、オオタタネコの流れかと。
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大阪を直撃した超大型風台風:2018年21号台風による箕面川筋の倒木は「瀧安寺の鳳凰閣」などに大きな被害を生ぜしめた。箕面の滝へあと10分付近に残る爪痕。
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瀧安寺 (りゅうあんじ) も役小角 / 役行者が弁財天像を安置し箕面寺と命名した (658) ことに始まり、隠岐に流された後醍醐天皇還御の祈願がなり建武の中興において寺号を賜ったという。
箕面富:富籤 (とみくじ) 発祥の地としても有名。
「瀧安寺山門」は京都御所から移築された (1809) もので、瓦に十六弁菊花紋、塀は5本の定規筋。奥に見える「観音堂」は大政所の寄進とされる (2002再建) 。「本堂(弁天堂)」と「行者堂(開山堂)」はその奥左にある。また、鳳凰閣、本坊は右側 (2018・21号台風災害復旧工事中) 。
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大正末期に建築された音羽山荘(箕面川右岸)付近。古くからの建物がある場所に差し掛かると涼しい風が通っている。
左岸には 役小角 / 役行者開山の日本最初の根本道場 (658):西江寺(さいこうじ)の写経場。
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子供の頃から数えて30回は通った箕面滝道。
役小角 (伝 634-701) / 役行者 が修行した場所。標識にあるように、阪急箕面線箕面駅から0.4km、滝へ2.4㎞地点、箕面川を渡る一の橋。手前が上流。
* 敬老の日には養老へ
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宝塚バウホールを通って宝塚大劇場の入口まで行ってみました。
名人戦の YouTube 実況中継の解説を担当した女流棋士 謝依旻六段 は宝塚の(大)ファンだそうです。
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右の緑の向こうの階段が「宝塚大劇場」と「宝塚バウホール」の入り口。タカラジェンヌはその向こう奥のアーケードを通って楽屋入りします。左端に阪急今津線の高架、劇場の向こう側を通って右端に見える武庫川(鉄橋)を渡ります。旧宝塚ホテルはそこにありました。
見えている4階の部屋でした。左のマンションとの間に武庫川が流れています。武庫とは六甲のことらしいです。
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「宝塚ハイボール」というのがあったので生ハムのサラダを肴に飲んでみた。ジョニ黒のハイボールに宝塚の象徴の「スミレ」の香り付けをしたものらしいが・・女性好みかと。
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45期 囲碁名人戦 芝野虎丸名人対井山裕太棋聖 第2局の2日目が進行中の「宝塚ホテル」。
それを窺わせるものは見当たらない。今年5月14日に宝塚大劇場横に移転オープンした。
挑戦者の井山棋聖が中押し勝ち。椿山荘での第1局に続き2連勝。
コロナのせいか今回はひそかに対戦が行われたようです。 21100
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ルネサンス美術館が入っているエクーアン城 Château d’Écouen (1538-50) の正面。右上とその左空濠手前の鉄門扉右端の間に建設者であるアンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency (1492-1567) の紋章が残っている。名門貴族モンモランシー家の出でフランソワ1世、アンリ2世等に仕えたフランス元帥。名の由来モンモランシーはここから南東数キロ。
父が遺贈されたシャンティイ城で生まれ、改造したことでも知られる。彼の騎馬像が城の正面に置かれている。
45期 囲碁名人戦 芝野虎丸名人対井山裕太棋聖 第2局 ”宝塚ホテル” で始まる。
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フレンチバロック:フレンチクラシック様式の傑作とされてきたメゾン城 Château de Maison (メゾン・ラフィット城) (1630-51) 。傾斜のきついマンサード屋根が目立つ。
フランソワ・マンサール François Mansart (1598-1666) によるこの城はその後のヴォー=ル=ヴィコント城 Château de Vaux-le-Vicomte (1656-61) 、ヴェルサイユ城(宮殿) Château de Versailles (1661-65) 等のシャトーの規範となった。
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ブランデンブルク選帝侯でプロイセン公 (在位:1640-88) のフリードリヒ・ヴィルヘルム Friedrich Wilhelm (1620年-1688) が制作を依頼したことに始まる (1660 ou 1670) セダン型馬車。彼はこの馬車を使用して、ブランデンブルクのベルリンからフランスのパリまで行きセンセーションを巻き起こした。当時の他の車体より耐久性に優れ、便利で、軽量で、転倒の可能性も低かったからだ。パリではベルリンに因んで<berline>と呼称した。今もセダン型自動車をフランス語ではベルリン berline という。 馬車博物館 Musée des équipages にて。
車体にある紋章はヴォー=ル=ヴィコント城の現在の所有者ヴォギュエ一族 Famille de Vogüé の紋章。。前に御者席(エンジン)、後に荷台が完全分離されている。
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ヴォー=ル=ヴィコント城 (1661) の正面「三角破風 Fronton triangulaire」。ここに見られる紋章はニコラ・フーケのものではない。後に購入 (1764) し、建物部分に手を加えたルイ15世の外務大臣・海軍大臣を務めたプラズラン公セザール・ガブリエル・ド・ショワズール César Gabriel de Choiseul, duc de Praslin (1712-85) が属す名門貴族ショワズール家 Maison de Choiseul の紋章だ。紋章は内側をサン=ミッシェル勲章 Collier de l’ordre de Saint-Michel 、外側を聖霊勲章 Collier de l’ordre du Saint-Esprit のネックレスで囲まれている。
フーケ Nicolas Fouquet (1615-80) がルイ・ル・ヴォー Louis Le Vau(1612-70) に命じて建造した (1661) ヴォー=ル=ヴィコント城をルイ15世の外務大臣・海軍大臣を務めたプラズラン公セザール・ガブリエル・ド・ショワズール César Gabriel de Choiseul, duc de Praslin (1712-85) が購入 (1764) して建物部分に手を加えた。フランス革命で没収後、アルフレッド・ソミエ Alfred Sommier (1835-1908) が購入し (1875) 、修復した。古典主義建築。 2014.08.02.
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ルノワール Auguste Renoir (1841-1919) がココの胸像 Bust de Coco (1907~1908) を制作してから約1年後に描いた<ピエロに扮したクロード・ルノワール Claude Renoir en clown (1909)>。オランジュリー美術館で観れる。高さ120㎝ の等身大で描いたとみられている。
マネの<剣を持った少年 L’Enfant à l’épée (1861)>(メトロポリタン美術館所蔵) にポーズが似ているとも。
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ルノワール Auguste Renoir (1841-1919) 60歳の時の三男クロード (幼少時ココ Coco と呼ばれていた) の胸像。
マイヨール Aristide Maillol (1861-1944) の影響を受けて彫刻にも関心を持つようになった (1906) ようだが、自らの手て制作したのは「ココの胸像 Bust de Coco (1907~1908)」他1点だけという。
プチパレ美術館所蔵のこのブロンズ作品には 21/30 の刻印がある。
また、妻の死後 (1915) 邸内に陶芸窯 “Les Collettes” を造り息子に陶芸を教えた。
クロード・ルノワール Claude Renoir (1901-69) は長じて陶芸家となった。
二頭のラバが運ぶ椅子 Chaises à Mules 。馬車では通れない狭い道や悪路などに人力で使用された「セダン椅子 / 椅子駕籠 Chaises à porteurs」の一種。セダン椅子 は馬車よりも手軽なことから18世紀にはヨーロッパ各地に普及した。日本の手輿のようなもの。
フーケ Nicolas Fouquet (1615-80) が建設したヴォー・ル・ヴィコント城 (1661) の “馬車博物館” で展示されている。18世紀にフランスかポルトガルで制作されたラバ椅子と考えられている。
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クラクフのカジミェシュ地区はユダヤ人が多く居住するシュテットル Shtetl で元は独立した自治体だった。
15世紀にチェコから移住してきたのが始まりらしい。地区内には複数のシナゴーグ (ユダヤ教の会堂) があるが、スタラ Stara・シナゴーグ Vieille Synagogue (1407 or 1492) はポーランドで現存する最古のシナゴークであり、”クラクフ歴史博物館分館” になっている。
バウォシュ広場 Place Bawół の北端から戦後復元されたゴシック・ネオルネサンス様式 (1560頃) の建物全景。四隅にあるレンガ造りの小尖塔 pinacle の内の2基が見えている。
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カジミェシュ3世 (在位:1333-70) が創設したヤギェウォ大学 (1364-1816 :クラクフ大学) の本部があるコレギウムノヴム Nouveau Collège (1887) 。ネオゴシック様式で往古の建物風に再建された。中央に王冠を載せた白鷲の国章がある。また、左の花壇には “コペルニクスの記念碑” がある (台座しか見えていないが) 。
クラクフ大学 (1364) にはコペルニスク Nicolas Copernic (1473-1543) が在学 (1491-95) 、世界最古の大学 (1088) ボローニャ大学に進んだ (1496-1500) 。彼が学んだコレギウムマイウス Collegium Maius (1400頃) は左のゴウェンビャ通りに入って左折したところ。
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クラクフは朝夕、非常時等に城壁の門の開閉を告げるためにラッパを鳴らすという中世の伝統を今日まで伝える世界で唯一の都市だそうだ。
中央市場広場の北東端に、1406年には完成していたとされる煉瓦造りのゴシック建築:聖マリア聖堂 Basilique Sainte-Marie de Cracovie の北塔はトランペッターの塔 Tour du trompettiste と呼ばれ、毎正時「聖マリアの夜明け Hejnał」を演奏し続けている。1241年のタタール人襲撃の逸話を象徴しているという。
北塔の頂部に尖ったゴシック様式の “多角形のヘルメット” を被せ (1478) 、”黄金のマリアの王冠” で飾り (1666) 、クラクフの監視塔として機能してきた。バロック様式のポーチ (玄関) は18世紀中頃に付け加えられた。
聖マリア大聖堂はヴァヴェル城、織物会館と共にユネスコ世界遺産登録第1号 (1978) の<クラクフ歴史地区>の代表建造物。<アダムミツキェヴィチ記念碑 (1898)>が右手前に。
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中央市場広場の織物会館で行われた交易でクラクフの輸出品目は織物、鉛、岩塩等だった。
クラクフ南東に隣接するヴィエリチカ (2000万年前には海だった) にあるヴィエリチカ岩塩坑 Mines de sel de Wieliczka (1044創業、1250 国営-1996 観光に特化) を見学した。「廃坑になっていない世界最古の岩塩坑」で、ユネスコ世界遺産登録第1号 (1978) 12件の一つ<ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群>。
深さ 327m、坑道延長 300㎞、急なシャフト(立坑梯子階段)で延々と下る。昇りは換気口を兼ねたマインシャフトのエレヴェーターで。”聖キンガ礼拝堂” のある大空間は圧巻だった。
マインシャフトを通して岩塩を搬出するためのヘッドフレーム Arbre Daniłowicz (1640) が中央に (D.は当時の鉱山マネージャーの名) 。塩坑のロゴ。
<クラクフ歴史地区>も最初の12件の世界遺産に含まれている。
朝パリを出て12時11分 (2008.08.09.) にはポーランドの古都クラクフ:クラコヴィの中心:中央市場広場にいた。手荷物はホテル ポッド ロザ Hotel Pod Różą に預けた。
広場の北側から見たクラクフの市庁舎の塔 Tour de l’Hôtel de Ville de Cracovie (15世紀) 。左に織物会館の西面。「アダム・ミツキェヴィチ Adam Mickiewicz (1798-1855) の記念碑 」は東面の前にある。遠くに見える鐘楼 (南方向) はヴァヴェル城内の “ヴァヴェル大聖堂の時計塔” のもの。その下部を隠している建物はポトッキ宮殿 Palais des Potocki 。
旧市庁舎が解体され見えるようになった市庁舎の塔の入り口前には「第9回宮廷舞踊フェスティヴァル IX Festival Tańców Dworskich」の特設ステージが設けられている。
クラクフ:クラコヴィの中央市場広場 Place du marché principal de Cracovie (1257:4ha) に残るクラクフの市庁舎の塔 Tour de l’Hôtel de Ville de Cracovie (15世紀) 。北側 (右) 西側 にあった市庁舎 (1300₋1820) の南東角に当たる。
右手前の建物は広場の中心 織物会館 Sukiennice (Halle aux Draps ) (13c) 。ネオゴシック様式のオジヴァルアーチのギャラリー (19世紀) が見えている。正面左端 (広場の南西端) の建物は牡羊宮殿 Palais aux Béliers 。