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ナント駅 Gare de Nantes の目の前にあるナントの植物園 Jardin des plantes de Nantes (7.328ha : 1806) 。約11,000種の樹木と植物が植えられているという。樹齢220年のタイサンボク Magnolia grandiflora や 600 品種のカメリア (椿) で有名。
パリ・モンパルナスへの乗車手続きを終えてから立ち寄った。駅前広場には当時 (2008.08.03.) タイサンボクの並木と日蔭があった。
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ナント駅 Gare de Nantes の目の前にあるナントの植物園 Jardin des plantes de Nantes (7.328ha : 1806) 。約11,000種の樹木と植物が植えられているという。樹齢220年のタイサンボク Magnolia grandiflora や 600 品種のカメリア (椿) で有名。
パリ・モンパルナスへの乗車手続きを終えてから立ち寄った。駅前広場には当時 (2008.08.03.) タイサンボクの並木と日蔭があった。
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ナントのサン・ピエール・サン・ポール大聖堂 Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes (1434-1891) をブルターニュ公爵城の城壁の上から見たところ。ゴシック様式。
西側正面の北側の塔は修復工事の完了間際で地上階には足場が残っていた (2008.08.01.) 。
アミアンの<美しい神 Le Beau Dieu>が置かれることの多い中央の中柱 Trumeau にはサン・ピエール (聖ペテロ) Saint Pierre の像が。
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濠側から見ると・・黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or の2基の尖塔が見える。
ジャコバンの塔 Tour des Jacobins (左) と港の塔 Tour du Port (右) の間にあるグラン・ロジス Grand Logis の屋根裏部屋の窓はブルターニュのアン Anne de Bretagne (在位:1488-1514) が追加したもの。中庭側の天窓に比べると簡素な造りになっている。
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(元) ロワール川側から見たブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne のグラン・ロジス (大住居) Grand Logis と黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or 。濠とジョン・ケネディ広場 Cours John Kennedy になっている城壁の手前は元々ロワール川で、城壁にロワール川へ通じる隠し戸 Poterne de Loire が付いている。
アーミンをちりばめたナントの市旗 Drapeau de la ville de Nantes がはためいている。
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ブルターニュ公の住居だった (1207₋1532) ブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne 。中央の黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or の左翼を Grand Logis 、右翼を Grand Gouvernement と呼び、右翼が公爵の住家だった (ロワール川に沿う Petit Gouvernement 共々) 。実質最後のブルターニュ公フランソワ2世 François II de Bretagne (在位:1458-88)と娘のアンヌ女公 Anne de Bretagne (在位:1488-1514) によるところが大きい、(炭酸塩堆積物)トゥファ石 pierre de tuffeau を使用したルネサンス様式の建物。
塔の前に井戸がある。右端馬蹄形の入り口階段部分はルイ14世の時代に改築されたもので、この向こう側が城への正面入り口になる。
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ナントのブルス広場 Place de la Bourse の旧証券取引所宮殿 Palais de la Bourse (1790-1815) (2008.08.01.)。グラスラン劇場 Théâtre Graslin (1788) の建築家マチュラン・クルシー Mathurin Crucy (1749-1826) による新古典主義建築。イオニア式列柱の上部にあった10体の彫像は第二次大戦で破壊された (2019 復元) 。
並木のブルス通り Allée de la Bourse のこちら側は元々ロワール川(港)で広場周辺は造船所だった。ナントは奴隷貿易で繁栄した。
後方にブルターニュタワー Tour Bretagne (1976,144m) と新ゴシック様式の Basilique Saint-Nicolas de Nantes (1869) の尖塔。
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今では自走式の大きい象 Grand Éléphant (2007) を知っている人は多いと思うが、その象が画面左にいる (2008.08.01.) 。ロワール川 (道路の向こう) の中州:ナント島にある造船所跡地 (造船所公園 Parc des Chantiers) の風景。ナントの造船所 Ateliers et Chantiers de Nantes (1914-17) とある建物はその遺構 (現 Maison des Hommes et des Techniques )。
象の後方の建物 Les Machines de l’île が ”機械で動く乗り物のギャラリー Les Galerie des Machines” などを収容している。象 (高さ12m、幅8m) の背に乗れる人数は52名 。
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フランス革命の直前に建設されたナントのオペラハウス<グラスラン劇場 Théâtre Graslin (1788)>。左右の建物を含む6棟の建物と共に半円形のグラスラン広場を構成する。マチュラン・クルシー Mathurin Crucy (1749-1826) による新古典主義建築。
コリント式列柱の上部にドミニク・モルクネヒト Dominique Molknecht による8体のミューズが追加された (1825) 。
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サン=ピエール門 Porte Saint-Pierre は ガロ=ロマン Gallo-Romaine 時代からの城壁の位置で土台を生かして建設された。13世紀初頭には濠と跳ね橋が追加された。手前が城内。アンリ4世はこの門を潜って城内に入りブルターニュ公爵城でナント勅令を発した (1598) 。
サン=ピエール門を出たところのフォッシュ元帥広場に置かれているのはルイ16世記念柱 Colonne Louis XVI (1790-1823) 。当初は自由のコロン Colonne de la Liberté の建造が目的だったらしい。尖塔は Église Saint-Clément (1839-75) 。
ナント大聖堂前のサン=ピエール広場からサン=ピエール門と旧パリ道を(2008.08.01.) 。
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ナント Nantes の「エルドル川古城クルーズ」乗り場からエルドル川 La Erdre の下流方向を見たところ。
右側の緑は中州でヴェルサイユ島。真直ぐ前の左派流はナントの町の中心部を向いていて、左にゴシック様式のナント大聖堂 Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes (1434-1891) (ブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne はその向こうで見えない) 、正面にロワールアトランティック県庁舎、右にナント市庁舎等がある。
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ロワール川 La Loire にナント Nantes で合流する右支流エルドル川 La Erdre 。ルネサンス王フランソワ1世 François Ier (1494-1547) が<フランスで最も美しい川>と呼んだという。
Bateaux Nantais が運行する古城クルーズに乗船した時の写真 (2008.08.02.) 。
右写真及び下写真中央のガスチェリー城 Château de la Gascherie はブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne の重臣によって15世紀後半に建設され、17世紀に買収した貴族シャレット家のガスチェリー侯爵が居住した (1775) 。上流右奥に見えるのは Château de Nay (19世紀) 。
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フランス革命の最中に完成した (1790) この広場はルイ16世広場となる予定だったが、インペリアル広場を経てロワイヤル広場となった (1814) 。噴水は後に追加された (1865) 。
水盤の上に載る大理石の戴冠の女性は<ナントの寓意像 Statue allégorique de la ville de Nantes>で、最下段正面の ”ロワール川 La Loire の寓意像 (両手の壺から噴水) ” などナントに恩恵をもたらす川や海や商工業等のブロンズ寓意像を見下ろしている。いずれも ダニエル・デュコムン・デュ・ロクル Daniel Ducommun du Locle (1804-84) の作品。
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「アーミンのマフラーを首に巻いた匍匐するアーミン」と「アーミンの毛皮模様」。
終着駅サンマロの一つ手前の駅 ラ・グエニエール|カンカル|サン=メロワール=デ=ゾン La Gouesnière – Cancale – St Méloir des Ondes の駅舎の壁面。
サンマロの紋章において落とし格子の刃先に載っているアーミン Hermine だ。
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昨年の夏、ブルターニュのレンヌからサン=マロへ 2泊3日の旅行した時のお土産です。
アーミン Hermine / オコジョ (シロテン) は冬には全身真っ白になります。尻尾の先だけが黒いままです。
アーミンの毛皮模様のスカーフを巻いています。
アーミンの毛皮ローブは権力の象徴でした。
アニマ Anima はストラスブールの南近郊のコミューン:ヒップスハイム Hipsheim に本社のあるおもちゃ屋さんのようです。
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殉教者ジャン・カラス Calas le martyr が息子の遺体をローソクの明かりで見つけた瞬間をトゥールーズ=ロートレックが描いた作品<首吊り Le Pendu (1892)>。
トゥールーズの商人ジャン・カラス (プロテスタント) は息子殺害の嫌疑で裁判に掛けられ拷問のうえ処刑された宗教的不寛容の象徴的な犠牲者の一人。ヴォルテールが名誉回復に関わったことでも知られる。
トゥールーズの日刊紙ラデペッシュ La Dépêche に連載された三部作<トゥールーズの惨劇 Les Drames de Toulouse>の宣伝ポスターとして制作されたリトグラフのための習作。紙に木炭で描いたもの。
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トゥールーズの日刊紙ラデペッシュ La Dépêche に連載された<トゥールーズの惨劇 Les Drames de Toulouse>の宣伝ポスター。
リトグラフは第一部の「殉教者ジャン・カラス Calas le martyr (1761)」が息子の遺体をローソクの明かりで見つけた瞬間をトゥールーズ=ロートレックが描いた作品<首吊り Le Pendu (1892)>。
周りの文字は後にラデペッシュの編集長になる Arthur Huc が作成した。作品名は<La Dépêche / Les Drames de Toulouse (1892)>。
アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館にて。
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避難所に見立てたトゥールーズ=ロートレックのモノグラム 丸に T-Lに逃げ込もうとするネズミを追いかけるメイ・ベルフォート May Belfort の黒猫。歌手で女優のメイ・ベルフォート家のディナーメニュー Menu pour un Dîner chez May Belfort (1896) のためにイラストしたもの。
彼女がロートレックに依頼したポスター <May Belfort (1895)>にもあるように、黒猫は彼女のショウに欠かせぬ存在だった。アルビのド・ゴール将軍大通りにて。
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#ロートレックの生誕地アルビ Albi のサント・セシル大聖堂で見れる「最後の審判」のフレスコ画。フランス屈指の大オルガンの下にあり、フランドルの画家(不詳)の作品 (1474-84) とされている。中央部分等が削除されてしまっているのが惜しい。
虚栄心、羨望、大食い、欲望、怒り、貪欲、怠け者の「七つの大罪」を犯した罪により地獄で罰せられる様が最下段に描かれている。例えば、車輪に縛り付けられている左端は「虚栄心」の大罪を犯した者への審判だ。
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アルビのサント・セシル大聖堂横のサント・セシル広場に面した (元) 司教の宮殿 Palais de la Berbie を使用した<アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館>前景。
13世紀にタルン川 Le Tarn 畔に聳え立つ要塞として建設された赤レンガ造り。入口のゲートにロートレック生誕 150周年 (2014) のポスターが貼られている。サント・セシル大聖堂 (下の写真を参照) の一部が左端にちらりと。
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ドーリア式の柱頭に乗るエンタブラチュアのフリーズ (垂直方向に取り付けられた飾り板状の部分トリグリフとトリグリフ間の部分メトープで構成される) に装飾がない等ブルゴーニュ門は簡素な仕上げの古典様式建造物。両サイドにあった人道門は取り除かれた (1807) 。
中世には、右側直ぐのガロンヌ川に架かるピエール橋 Pont de Pierre を通ってパリからボルドーへの入場門サリニエール門 Porte des Salinières があったところ。
ブルゴーニュ門 Porte de Bourgogne (1750-55) はルイ15世の王太子”フランスのルイ”の長男のブルゴーニュ公(後のルイ16世の兄)に捧げられた (1757) 。アンジュ=ジャック・ガブリエル Ange-Jacques Gabriel (1698-1782) と André Portier (1702-70) の作品。
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ボルドー Bordeaux のカンコンス広場 Place des Quinconces に置かれている高さ54mの<ジロンダンの記念柱 / Monument aux Girondins>の足元を取り囲む二つの<ジロンダンの噴水 Fontaine des Girondins>の内の一つ。
Achille Dumilatre (1844-1928)による<コンコルド (和解) の勝利 Triomphe de la Concorde>で、背面に<共和国の勝利 Triomphe de la République>がある。
<ジロンダンの馬 Chevaux des Girondins>と呼ばれる4頭の馬(タツノオトシゴ Chevaux marin)に曳かれたクワドリガ Quadriga にオリーブの小枝を持ち月桂冠を載せたローマ神話の和解・調和の女神コンコルド / コンコルディアが乗っている。
一見普通の馬に見えるが、足先を注視すると・・
記念柱の台座の左側にフランスの象徴である<ガリアの雄鶏 Coq gaulois>が見える。
左側へ12.6haもの巨大広場がガロンヌ川まで続く。 2009.08.04.
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法の精神 De l’Esprit des lois (1748) で誰もが知っている啓蒙思想の哲学者のモンテスキュー Montesquieu (1689-1755) はボルドー近郊生まれ。100年後にフランス革命が起こる。
ボルドーの中心にある大広場 (12.6ha) :カンコンス広場 Place des Quinconces に置かれた<モンテスキューの立像 Statue de Montesquieu (1857)> 。叔父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー議会高等法院副院長の官職を継承して (1716) 10年間その職にあったが、その当時の Président à mortier の公式衣装を身に着けている。白いフード付きの赤いローブだと思われる。モルティールは持っていない。マジジ Dominique Fortuné Maggesi (1801-92) の作品。
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サン=テミリオンのオテル・ド・ヴィル Hôtel de ville de St-Emilion と背景左にモノリシック教会の鐘楼 Clocher de l’église monolithe と右に参事会教会 Collégiale de Saint-Émilion 。
葡萄畑を含む中世の都市、サン=テミリオン管轄区 Juridiction de Saint-Émilion (1999) として世界遺産に登録されて10周年の幟が立てられている。現在は20周年を超えた。
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マレの家 Logis de Mallet は古くからの貴族だったマレ・ロックフォール Malet Roquefort の家だったことに因む。右端に見える12世紀初頭からのサン=テミリオンの(城)壁を兼ねた住居を街側に拡築し造園したもの (18世紀) 。ヨーロッパ戦勝記念日大通り Avenue du 8 Mai 1945 に面した裏側は従前通りなので、二つの顔を持つ家 Logis aux deux visages とも呼ばれているらしい。
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サン=テミリオンのモノリシック教会のベルタワー Clocher de l’Église Monolithe 前の鐘楼広場 Place du Clocher からの遠望。町の周辺にはサン=テミリオンのブドウ農家:シャトー Château の葡萄畑が広がる。
右に王の塔 Tour du Roy のあるシャトー・ドゥ・ロア Château du Roi 、絶壁の眼下にトリニテシャペル Chapelle de la Trinité de Saint-Émilion 。岩山を穿った地下教会:モノリシック教会への入り口はシャペルにある。 2009.08.03.
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岩山を穿って造られたヨーロッパ最大の地下教会サン=テミリオンのモノリシック教会 Église Monolithe de Saint-Émilion はボルドー近郊のサン=テミリオンにある。
教会のベルタワー Clocher de l’Église Monolithe から崖下のマルシェ広場に降りる急で長い坂道の途中・・前方遠方にロマネスク様式の Château du Roi の王の塔 Tour du Roy と手前下方にトリニテシャペル Chapelle de la Trinité de Saint-Émilion 。
築城はルイ8世 (1224) ともヘンリー3世とアキテーヌ公爵 (1237) とも。 2009.08.03.
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18世紀の英仏戦争では、民間船に敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う私掠 (しりゃく) 免許を与えて海軍力を補完しあった。サン=マロは英仏海峡の要衝で、私掠船:フリゲート・コルセール Frégate corsaire が大いに活躍した。時に海賊にも。
1745年モデルのフリゲート・コルセールのレプリカ<Etoile du Roy>が係留されていた。イギリスでTVドラマ用に復元制作され (1996) 、後にサン=マロの企業が購入した (2010) もの。マストにサン=マロの市旗がはためく。
因みに、イギリス海軍初のフリゲートは鹵獲(ろかく/捕獲)したフランスの私掠船を模して建造された (1646) “Constant Warwick” とされている。
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フランス国鉄は地域圏ごとに地域圏急行輸送 Transport express régional :テーウーエル ter (TER のロゴタイプ) を運行している。特別料金不要の快速列車。
写真はブルターニュ地域圏 Région Bretagne を走行する TER 。ロゴはオコジョの毛皮模様のアーミン Hermine 。首府レンヌから乗車し、大西洋への出口イギリス海峡に面した終着駅サン=マロに到着したところ。
ジョージア
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レンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Pierre de Rennes (1845) の正面は崩壊したゴシック様式を古典様式で再建した (1704) もので、ルイ14世の王章が中央ペディメントに置かれている。太陽王ルイ14世のモットーである” Nec pluribus impar “ (比類なき/全ての上に) のリボンが付いている。
左の建物はリス市場 Marché des Lices (Halles Martenot ouest) でレンヌ市の建築家マルテノ Jean-Baptiste Martenot (1828-1906) の作品のひとつ。
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メッスにあったフォートドキュル強制収容所 (1940-44) はナッツヴァイラー / ストリュートフ強制収容所 の分館として、親衛隊によるレジスタンス等の尋問収容所 (1943-44) だった。
壁面のイラストにあるように、1800人の愛国者が目隠しされ手足を縛られて、拷問と尋問を受け、36人が死亡し4人が脱走した。その他は ストリュートフ強制収容所 に移送された。
指揮官だった親衛隊上級曹長のヘンペンはメッスの軍事裁判において36人の殺害で死刑判決を受けた。
ロレーヌ地方の要塞:フォート ド キュル Fort de Queuleu はフランスが構築 (1868) 後にプロイセンに占領された (1871-1918) 。その後再びドイツに占領された (1940-44) 。
ボランティアの案内人の一人、イタリア生まれの御婦人は兄弟がここに収容され移送されたと話されていた。 2018.08.19.
Camp d’internement du fort de Queuleu / Fort de Queuleu / Metz
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<ベルトラン・デュ・ゲクラン Bertrand du Guesclin の死>。ゴブランのタピスリーで1994年のブルターニュ議会宮殿 火災からの唯一の生き残り。エドゥアール・トゥードゥーズ Edouard Toudouze (1848-1907) が描いた原画 (1904) はレンヌ美術館にある。
サン=マロで英仏海峡に注ぐランス川中流の町ディナン近郊生まれのベルトラン・デュ・ゲクラン (1320頃-80) は百年戦争 Guerre de Cent Ans (1337-1453) 初期、ブルターニュ継承戦争 (1341-65) において、イングランドのランカスター公による「レンヌの包囲 (1356-57)」を籠城で耐え抜き、シャルル5世の信任を得た。即位 (1364) 後は王に仕え、コネタブル Connétable de France として各地で活躍しブルターニュをはじめ失地の回復に貢献した。王命によりサン=ドニ教会に埋葬され、シャルル5世の足下に彼の石棺はある。
紋章は双頭の鷲に細いバンド Cotice 。上隅にフランス王とブルターニュ公国の紋章。遺骸の両脇に Bertrand du Guesclin connétable de France のリボン。上に不滅・永遠のヤシの葉。・・
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フランス革命までブルターニュ議会のあった (1618-1790) ブルターニュ議会宮殿 Palais du Parlement de Bretagne 。1804年以降、レンヌ控訴裁判所 Cour d’appel de Rennes として使用されている。
バロック古典主義建築で、1994年の火災後に復元された痕跡が明らか。中央の時計は日時計だが、曇天のため時刻を窺うことはできない。
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<ブルターニュのアンヌ女公 と シャルル8世 の結婚式>。ゴブランのタペストリーの原画はエドゥアール・トゥードゥーズ Edouard Toudouze (1848-1907) が描いた (1907) 。
レンヌ Rennes にある(旧) ブルターニュ議会 Palais du Parlement de Bretagne で観れるが、火災で焼失した (1994) タペストリーの原画を再現したもの。
アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne (1477-1514) はブルターニュ公国の拠点であるナントのブルターニュ公爵城でフランソワ2世の子として生まれ、幼くしてブルターニュ女公となった (1488‐1514) 。
が、ブルターニュ公国の継承を巡る争いから政略的にマクシミリアン1世 (神聖ローマ帝国皇帝) と結婚 (1490) 、フランス王シャルル8世と再婚 (1491) 、ルイ12世と再再婚 (1499) した。
ブルトン人の独立確保のための戦いの人生だった。
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サン=マロ城に接続するギャレーの要塞 Bastion de la Galère とシヨン通り Chaussée du Sillon 沿いの海岸堤防との間の開口部からのナショナル要塞 Fort National と英仏海峡 Manche 。
ルイ14世治下の城郭建築家ヴォーバン Sébastien Le Prestre de Vauban (1633-1707) 作の要塞にフランス国旗が揚がっているのは干潮のため徒歩で行けることを示している。
付近の干満差は14mあり、潮流を制御する水制が堤防前に置かれている。角落しの形跡も見えるが、大潮で危険な時にはシヨン通りのレヴェルで土嚢を使用しているようだ。
サン=マロでの2014年2月1日と2日の満潮時の様子。低気圧通過中。YouTube から転載。
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城郭都市サン=マロのサン・ヴァンサン門 Porte Saint-Vincent の右手に連続するサン=マロ城 Château de Saint-Malo (1424-) 。英仏海峡 Manche 側に対称にある塔を合わせて4つの塔とドンジョン Grand Donjon 。右側にギャレーの要塞 Bastion de la Galère が連なる。
天守にはためくのはアーミンのあるサン=マロの市旗 (下4旗の右端。左端はブルターニュの旗 Gwenn ha Du) 。
5575
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サン=マロ Saint-Malo の城内に入る門の一つ、サン・ヴァンサン門 Porte Saint-Vincent に見られるサン=マロとブルターニュの紋章。
左に、落とし格子 Herse の上に(オコジョ模様の)マフラーをなびかせたアーミン Hermine:オコジョ (シロテン) を載せたサン=マロの紋章。
右に、ブルターニュ公国以来のブルターニュの紋章である「アーミン」:オコジョ(シロテン)の毛皮模様。上に公爵冠。
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フランス国鉄 SNCF は従来のル・マン Le Mans からレンヌまで延伸された (2017) のを契機に高速列車を TGV から TGV inOui イヌイに名称変更した。レンヌから乗車したのはその新型車両だった。Wi-Fi 設備も搭載されている。1等車は最後尾だった。
<inOui は「前例がない、驚くべき:前代未聞>と言う意味。終着のモンパルナス駅にて。
タクシーで、レンヌ通り、サンジェルマン通り、ディドゥロ通り、ドメニル通りを経てヴァンセンヌ Vincennes まで帰った。
TGV inOui / Rennes~Montparnasse / Gare Montparnasse
Brest 始発の TGV inOui を待つ間に弾きました。人工地盤の1階から地上階への緑化斜面の上端と駅前の再開発ビルの一部が見えています。
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レンヌのサン=ジョルジュ宮殿 Palais Saint-Georges とフランス式庭園。
建物に書かれている Magdelaine de la Fayette 修道院長によってサン=ジョルジュ修道院として建設 された(1670) 。ピエール・コルビノー Pierre Corbineau (1600-
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13日 14:00 潮のひいたサン=マロ Saint-Malo の風景です。通常は海中にあるグラン・ベ島Grand-Bé まで歩いて行けるようになっています。モン=サン=ミッシェル Mont-Saint-Michel を思い出します。
7563
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レンヌからサン=マロ Saint-Malo へ日帰りで行ってきました。朝、ホテルから徒歩でぶらぶら駅に向かいました。手前の整備が進行中ですが、駅舎はこのように出来上がっています。
8726
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早朝に家を出てモンパルナスからレンヌへ2泊3日の小旅行に出かけました。サンマロ St Malo 行き8:09 発の TGV を利用しました。7:29 の時点では未だ発車ホームは決まっていません。
7561
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パリ東部ライン川の左支流モーゼル川流域の町メース Metz を散策中に喉を潤したビール2種。
ビールも摘みもおいしかった。パレ通りのビヤホール Bar à bières <Les BerThoM Metz>の店先。いずれもベルギ-産のビール。
グリゼット Grisette の鳥はノドジロムシクイ / 灰色の鶯 Fauvette grisette 。マレッツ Maredsous は 生ビール / 樽生 Pressions Au fût を注文した。銘柄に応じたグラスにコースター。品数が多すぎて選ぶのが大変。
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ストラスブールの大聖堂広場に面して残るメゾン・カメルツェル Maison Kammerzell 。ラインラントルネサンス Type Renaissance rhénane の建物で、「ストラスブールで最も美しいメゾン」と言われる。
地上階は石造り (1427) でその上にルネサンス美術溢れる木骨造3階建て、2層の屋根裏部屋 (1589) が載る。
右の建物にオフィス・ド・ツーリズム Office de Tourisme de Strasbourg が入っている。
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ストラスブールに残るルネサンス建築:Neue Bau (1582-85) 。アルザス瓦を敷き詰めた大屋根に3層の屋根裏部屋。現在は商工会議所が使用している。
TGV が開通して間もない当時 (2007.08.03) 、グーテンベルグ広場 Place Gutenberg (vers 1100) の右端にあるはずのグーテンベルグの像は改修中だった。
グーテンベルグ Johannes Gutenberg (vers 1400-68) は羅針盤と火薬とともにルネサンスの3大発明とされる活版印刷の発明者。ドイツのマインツ出身だがストラスブールに住んでいた頃 (1434-44) に実用化に成功した。
左端の靴店 Salamander のサマランダーはルネサンス王フランソワ1世が用いたエンブレム。
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ストラスブールにある<ルーブル・ノートルダム美術館 Musée de l’Œuvre Notre-Dame 〉の「ゴシックの小庭 Jardinet gothique (1937)」から見える木骨造 (コロンバージュ) の建物。
アルザスの屋根瓦 Tuile alsacienne を戴せた塀の向こうはマロカン通り。アルザスの木骨造の家 Maison à colombages は多様だ。
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以前紹介したランス大聖堂のステンドグラス (1974) に先駆けて、シャガール Marc Chagall (1887-1985) が手掛けたメースのサンテティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz のステンドグラス。
ランス大聖堂同様、ランス生まれのガラス工芸家 Vitrailliste :ジャック・サイモン Jacques Simon (1890-1974) との共同作品 (1960) 。
テーマは左から、「モーセと十戒 Moïse et les 10 commandements」、「ダヴィデとハープ David et la harpe」、「エレミヤ Jérémie」の預言者達。
第二次大戦で被災したものの代替え。
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以前紹介したランス大聖堂のステンドグラス (1974) に先駆けて、シャガール Marc Chagall (1887-1985) が手掛けたメースのサンテティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz のステンドグラス。
ランス大聖堂同様、ランス生まれのガラス工芸家 Vitrailliste :ジャック・サイモン Jacques Simon (1890-1974) との共同作品 (1960) 。
テーマは下段左から「イサクの燔祭 Ligature d’Isaac」、「天使とヤコブの闘い Lutte de Jacob avec l’Ange」、「ヤコブの梯子 Échelle de Jacob」、「モーセと燃える茂み Moïse devant le buisson ardent」。上段には「ノアの洪水と方舟と虹 Déluge et Arche de Noé et Arc-en-ciel」。第二次大戦で被災したものの代替え。
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以前紹介したランス大聖堂のステンドグラス (1974) に先駆けて、シャガール Marc Chagall (1887-1985) が手掛けたメースのサンテティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz のステンドグラス。
ランス大聖堂同様、ランス生まれのガラス工芸家 Vitrailliste :ジャック・サイモン Jacques Simon (1890-1974) との共同作品 (1960) 。
テーマは「地上の楽園と原罪 Paradis terrestre et Péché origine」つまり「アダムの創造 Création d’Adam 」。
第二次大戦で被災したものの代替え。
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シュノンソー城 は<貴婦人たちの城 Château des Dames >と呼ばれるが、その一人目は城をデザインし、監督した (1513-21) キャサリン・ブリソネ Katherine Briçonnet (1494-1526) 。シャルル8世の侍従トマ・ボイエ Thomas Bohier 夫人だ。
シェール川を利用したマルクの製粉所跡にルネサンス様式の城を建設した。左の<マルクの塔 Tour des Marques >(1430頃) はドンジョンの上に鐘楼を追加する等の改造をして残した屋敷の一部。
アンリ2世の愛妾 (1538-66) ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers (1500-66)、王妃カトリーヌ・ド・メディチ Catherine de Médicis (1519-89 : 在位 1547-59) 、アンリ3世王妃ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン、アンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレ、ヴァンドーム公セザール夫人のフランソワーズ・ド・ロレーヌ、啓蒙運動にサロンを提供し、フランス革命を乗り切ったルイーズ・デュパン等錚々たる貴婦人達に愛された。
シェール川に架かるディアーヌ橋 Pont de Diane を建設したのはディアーヌ・ド・ポワチエであり、橋上のギャラリー部分は王妃カトリーヌ・ド・メディチ によって増築された。
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アンリ2世の愛妾 (1538-66) で、王妃カトリーヌ・ド・メディチ Catherine de Médicis (1519-89 : 在位 1547-59) との確執で知られる、ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers (1500-66) がアンリ2世から貰った (1547) シュノンソー城 Château de Chenonceau 。
モノグラムが HC なのか HD なのかで話題となるディアーヌ・ド・ポワチエだ。
そのシュノンソー城入口に置かれているスフィンクス。 2015.01.14.
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メース (メッツ) のサン=エティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz の夜。
正面入口 Portail néoclassique de Blondel (1764) のある西面。
サン=ジャック広場は人で一杯。
光と音の芸術は見る度深化しているようだ。
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ナポレオン・ボナパルトが「勇者の中の勇者」と称えた<ミシェル・ネイの記念碑 Monument au maréchal Ney >が旧ロレーヌ地域圏の首都メース Metz にある。
地元の彫刻家シャルル・ぺトレ Charles Pêtre (1828-1907) の出世作 (1860) 。
ナポレオン復位 (百日天下) に伴い、再びナポレオンの下でワーテルローの戦いを指揮したことから、復位したルイ18世から不敬罪に問われて処刑された。RER B 線 Port-Royal 近くの処刑跡には記念碑 Statue du Maréchal Ney が置かれている。(右写真)
ミシェル・ネイ (1769-1815) はロレーヌ地方のザールルイ Sarrelouis 生まれ。当時はフランス領だった。ルイはルイ14世を指す。
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ロレーヌ地方の大都市メース Metz に残る中世の要塞門。「ドイツの門 Porte des Allemands 」と呼ばれる。
右側のゴシックの塔 / 門 (1230頃) の右側がメースの街、ライン川の左支流モーゼル川の支流セイユ川 La Seille をここで渡って市内に入った。川沿いには右側に見えるガロ=ローマ時代 époque gallo-romaine に起源をもつ「中世の城壁 Remparts médiévaux de Metz 」が連なる。
その後、橋を挟んで左側のルネサンス様式の門を追加して防御を強化した (1445頃) 。
ルイ14世の軍事建築家ヴォーバン Vauban も関係している。
台風24号が沖縄に接近中だが、今日は今秋最高の日和。室温27度、湿度58%。
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左は地下の神ハーデス Hadès 、中央左に生命の樹 Arbre de vie 右に豊穣の女神 デーメーテール La déesse Déméter 、右に (天馬 ペガサス Pégase ?と) ヘビを属性に持つミネルヴァ・メディカ Minerva Medica をデザインしたものと思われる (私見) 。ハーデス は植物が地下からら芽を出し成長することから豊穣神ともされる。
植物、ヘビはいずれも再生・不死・不滅の象徴。この教会のステンドグラス群のテーマ。
(注) 左下の窓が開いている。
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中央にコクトー Jean Cocteau (1889-1963) 自身と思われる人物とその上に動物の頭部。
両サイドにヒヤシンス (とヒュアキントス) とバラの花。
アポロンの円盤に当たって亡くなったヒュアキントス Hyacinthe の死を悼んだアポロンがヒヤシンスに変身させた (ギリシャ神話) 。不死・不滅の寓意。
右下にコクトーのサイン。中央にガラス職人工房のブリエール Brière , 1969 の文字。コクトーの死後、養子のエドゥアール・デルミ Édouard Dermit がコクトーのデッサン (1962) を監修した。
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メース Metz のカトリック教会:サン=マキシミン教会 Église Saint-Maximin de Metz (12世紀) でジャン・コクトー Jean Cocteau (1889-1963) 最晩年のステンドグラスを見ることができる。メースの劇場で舞台装置・衣装を担当して滞在していた時に依頼を受けたらしい。
祭壇背後のステンドグラス。不死・不滅がテーマとされる。この下の壁にキリスト像がある。
下向きの聖霊の鳩を男が両腕を挙げて支えている。
コクトーの星付きサインとガラス職人工房のブリエール Brière の文字が見える。
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インターネット上の企画 (2017) において< フランスで最も美しい駅 Plus belle gare de France >に選ばれたのがメース=ヴィル駅 Gare de Metz-Ville 。
美しいというより先に堅牢な石の駅という感がしたこの駅は、ナポレオン3世がプロイセンに敗れてドイツ帝国に割譲した (1871) 後に、ネオ・ロマネスク様式 Style néo-roman rhénan で建設された (1908) 。アルザス・ロレーヌ地方を帝国が直轄統治 (守備) するための軍人・軍馬・兵器・物資の輸送拠点として頑丈で巨大な駅が必要だった。
パリからルクセンブルグ Luxembourg 行き TGV で、ランス近くの Champagne-Ardenne に次ぐ2駅目。Thionville を経て1時間12分で終着。「ベネルックス3国の旅」で訪れたのは30年ほど前だ。
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メース Metz の駅はアートでいっぱい。
ヤマハピアノ Piano en gare も自由に弾ける À VOUS DE JOUER ! 。
私も・・
今夏、8月17日に初めて NETFLIX で配信されたテレビアニメ<Désenchantée 幻滅>のキャラクターが6枚、上方に。
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メッスのサンテティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz (1240-) 正面中柱 / トゥルメー Trumeau には<美しい神 Le Beau Dieu>、救世主キリストの像。
獅子 (右足) とドラゴンを踏み付け、右手は祝福の手付き。左手に聖書、衣装は長いチュニック Tunique 。
破風/ティンパヌム Tympanum / Tympan には「最後の審判 Jugement dernier 」。
魂の公正さを量る天秤を持つのは大天使ミカエル。
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スモモの一種でこの時期出回っているミラベル Mirabelle の生産地メッス Metz に行ってきました。ミラベル祭り Fêtes de la Mirabelle が今日18日(土)から26日(日)迄催されます。
メッスのサンテティエンヌ大聖堂 Cathédrale Saint-Étienne de Metz 横のアルム広場 Place d’Arme の様子です。垂れ幕のかかっている建物 Ancien corps de garde にオフィス・ド・ツーリズムが入っています。
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世界遺産登録 20周年記念事業として行われている「城塞都市 カルカソンヌ」の<伯爵の城 Château comtal>を使った現代アートの評判が地元で今一つという報道をみて、2005年に訪れた頃を回想した。 07/11/2005.
2500年の歴史を持つカルカソンヌだが、この伯爵の城は 12世紀の建造、長らく (1659 まで) スペイン支配のアラゴン王国との前線基地だった。
夜、ライトアップされた城の載る (左下に見える) 土塁の上を散策したことを思い出す。