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銀座シックス GINZA SIX の吹き抜け。世界最古の百貨店、ボン・マルシェ Le Bon Marché にイメージが重なります。
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銀座シックス GINZA SIX の吹き抜け。世界最古の百貨店、ボン・マルシェ Le Bon Marché にイメージが重なります。
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今日の銀座はクリスマスの飾り付けは終わり、門松に替わった。29~31日の据え付けは忌み・避けられるので今日が最終日。
”松屋銀座” の門松。「寸胴 (ずんどう) 」型の青竹3本。銀座(中央通り)では寸胴が目立った。「削ぎ(そぎ)」は少数派。
救世軍が「社会鍋」を置いて慈善募金活動をしていました。
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右側が江戸城外堀の一部の弁慶濠で、桜の木の間に赤坂見附のあった石垣が見えている。右側を走る高速4号新宿線の千代田トンネルの入り口がその右に。
左側が東京ガーデンテラス紀尾井町の紀尾井タワーと紀尾井レジデンス、とその奥に平河町の都道府県会館。
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セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ St Martin-in-the-Fields (1721-26) の正面の切妻破風にはハノーヴァー朝 (1714-1901) 初期のイギリスの国章 Royal arms / Royal coat of arms of the United Kingdom が刻まれている。
シールドの左上にイングランドとスコットランドの王章を並べたグレートブリテンの王章、右上に共和国になるまで(1900)継承権を主張していたフランスの王章、左下にアイルランドの王章、右下に神聖ローマ帝国(皇帝冠)のハノーファー(パッサントホース)選帝侯:ブラウンシュヴァイク(二頭のパッサントライオン)=リューネブルク(ランパントライオンハート付き)選帝侯の紋章。
王の権威を示す聖エドワード王冠 St Edward’s Crown を載せている。クロスパティー Cross pattée とフルール・ド・リス Fleur de lys が基調。
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トラファルガー広場のネルソン記念柱下からセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ St Martin-in-the-Fields (1721-26) を見たところ。左にナショナルギャラリー、中央にジョージ4世 (在位:1820₋30) の騎馬像、右にライオン。
教会はハノーヴァー朝 (1714-1901) の開祖ジョージ1世治世下で再建された新古典主義建築だが、起源は1222年に遡る。列柱を伴う切妻屋根と尖塔は北米植民地教会のモデルとなった。
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1900年にオープンしたロンドン・ヒッポドローム London Hippodrome の建物外観。サーカスとバラエティの会場として建設された。幾多の変遷を経て現在はカジノ Hippodrome Casino になっている。
クランボーン・ストリートから見たところ。二頭立ての二輪戦車:チャリオット Chariot が載るタワーがあるのがチャーリング・クロス・ロードとの交差点角。ローマの戦車の下には槍と盾を持ったローマ兵士の像も見える。
ヴァンセンヌ競馬場 Hippodrome de Paris-Vincennes やロンシャン競馬場 Hippodrome de Longchamp など競馬場を連想してしまう。2019.08.03.
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ウィズ原宿 WITH HARAJUKU (2020) の玄関口をJR原宿駅から (2020.12.11.)。3階に入っているEATALY HARAJUKU イータリー原宿のオープンテラスに置かれているモニュメント。
眼下では旧駅舎の取り壊しが進行中だった。
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ジェラール・ベルトラン Gérard Bertrand のスパークリングワイン<コード・ルージュ Code Rouge>。
日本で開催された「ラグビーワールドカップ 2019」限定版のラベル:ラグビーボールと地区予選を勝ち上がった20か国のロゴが貼られている。
ジェラール・ベルトラン (1965-) はフランスのラグビー選手だった (1984-94) 。父親の死 (1987) により家業を引き継ぎ大発展させた。モンペリエ西方のナルボンヌ Narbonne に本社がある。
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業務用チョコレートメーカー ”ヴァローナ VALRHONA” のショコラ。
カカオ85%と70%のブラックチョコと40%のミルクチョコの3点セット。
ローヌ川沿いのコミューン:タン=レルミタージュ Tain-l’Hermitage に本社がある。
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「小滝橋行き 経済産業省前バス停」からの秋景色 (2020.11.30.) 。ケヤキとイチョウとサクラの並木が並行している。右の建物は外務省。国会議事堂の左後ろには紀尾井タワー (2016/180m) が見える。
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友人との昼食会会場入り口のコーナー。
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アムステルダムの5本の環状運河の最も外側のシンゲル運河:シンゲルグラハト Singelgracht (1610-62) には運河の内側に26基の要塞(堡塁)があり、製粉所の風車が置かれていた。その内現存する2基の一つがデ・ホイエル(製粉所) の風車だ。1814年以降、1725年にはあった旧地から2基ほど北東になる現在地で稼働している。
欄干に ”夜明けの橋 Dageraadsbrug ” の表示がある (クザール・ペーテル通り) 。
ネオ・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式を組み合わせたピエール・カイパーズ Pierre Cuypers (1827-1921) の作品:アムステルダム中央駅 (1881-1889) 。アムステルダム国立美術館 (1876-1885) と同時並行的に建設された。「聖アンデレ十字:Ⅹ」3つがアムステルダムの紋章 。 2012.08.10.
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5本の環状運河の最も外側のシンゲル運河 Singelgracht (1610-62) は1660年頃 (黄金の17世紀) にアムステルダムの外堀となり内側に城壁が築かれた (19世紀末には撤去) 。
シンゲル運河の内側から外側にあるアムステルダム国立美術館 (1885) の正面を見たところ (当時はここに要塞があり、運河は美術館の裏正面前に湾曲していた) 。ネオ・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式を組み合わせたピエール・カイパーズ (1827-1921) の作品。アムステルダム市立美術館 (1895) 、ゴッホ美術館 (1973) はこの後方 (外側) にある。
3連泊したホテル エセレーア Hotel Estherea からアムステルダム中央駅に出るのにシンゲル Singel 沿いに南下して、屈曲点のワイデ・ハイ通りから見たシンゲル (運河) 。次の橋がトラムの通るコーニングス広場。右にネオゴシック様式のフランシスコ・ザビエル教会。
シンゲルの内側に沿う1385年以前の外堀 (1884 埋塞) だったニーウェゼイス・フォールブルグワル通り Nieuwezijds Voorburgwal を通って駅に出た。2012.08.12.
中華人民共和国マカオ特別行政区
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シンゲル Singel は最も内側の環状運河。アムステルダムがこれを超えて拡大する1585年 (ネーデルラント連邦共和国成立) までは1480年以降外堀としての役割を果たした。前方に見えるパレイス通りに架かる橋を右に行くとアムスの中心のダム広場 Dam 、旧市役所・現王宮がある。旧アムステル川を埋め立てたダムラック通り Damrak を進めばアムステルダム駅だ。
右側 (旧市街) のホテル エセレーア Hotel Estherea に3連泊した。
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アムステルダムの語源となったアムステル川 Amstel に架かる木造の跳開橋:マヘレの跳ね橋すぐ下流で合流する新へーレン運河に架けられたワルター・スースキントの跳開橋 。木製の古い外観を持って架け替えられた新しい橋 (1972) 。
ワルター・スースキント WalterSüskind (1906-45) はナチス占領下に約600人の子供達の逃亡を助けたが、自身は犠牲になった。
アムステルダムの5本の環状運河の2番目がへーレン運河で、オランダ東インド会社設立の頃に建設された (1612) 。
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アムステルダムに今なお木造の跳ね橋 (跳開橋) として残されているマヘレの跳ね橋 Magere Brug 。伝統的な白い塗装の木製のダブルバスクル橋だ。観光用のボートは両脇の桁下を通れるので1日数度しか跳開しないらしいのだが・・。アムステル川の下流側から。
007シリーズ第7作「007 ダイヤモンドは永遠に (1971)」において、ボンドガールのジル・セント・ジョン Jill St. John とショーン・コネリー Sir Thomas Sean Connery が乗っているボートがマヘレの跳ね橋をアムステル川の上流側から通り抜けようとしているところ。50年も前のことだ。
ショーン・コネリー (1930-2020) は昨月31日死去した。合掌
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新宿3丁目で ”Go To Eat” を体験してぶらぶら帰宅途中、<K – shuttle>を見かけたので初めて乗ってみた (JR 新大久保駅前まで) 。新宿韓国商人連合会が無料で運行している(大久保駅・新宿区役所・新宿西口・都庁前・新宿南口・四谷3丁目・曙橋・東京女子医大・抜け弁天等)。
ここは職安通りと区役所前通りの交差点 (鬼王神社前) で始点。手前左に島崎藤村旧居跡、奥にある JR 山手線・中央線手前に藤村が妻と3人の娘を埋葬した長光寺がある。また、藤田嗣治の新(婚住)居兼アトリエはJR線の向こう左にあった。二人ともここからパリに脱出した (1913) 。
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アムステルダムでトラム (Tram 10 / サルファティ通り) に乗っていた時に出くわした。アムステル川に架かる Hogesluis 橋 (1662・1883・2012) のダブルデッキ型跳開橋部分。装飾された美しい古橋を350年後のこの時、復元供用開始したばかりだった。2012.08.10.
跳開橋が閉じ遮断機が挙がりかけている。右側一つ上流のニウウェ・アムステル橋もダブルデッキ型跳開橋部分があり、垂直に立った遮断機(4本の内)2本が見えている。右前方にインターコンチのアムステルホテル。
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サンマルタン運河 (1825) の上のジュール・フェリー広場 Square Jules-Ferry (1924) の紅葉。チャンチン Cédrela de Cine だと思われる。
左方のレピュブリック広場からのレピュブリック大通りが運河を横切る。手前側が下流でバスティーユ広場に至る。
ジュール・フェリー (1832-93) は初等教育の無償化を実現した政治家の名。
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アフリカ分割の過程で生じたアフリカ南北のイギリスと東西のフランスの交差点での両国の紛争”ファショダ事件 (1898) ”で、フランスの司令官だったマルシャン Jean-Baptiste Marchand (1863-1934) の顕彰碑 Monument au commandant Marchand 周りの秋色。
カメラ側に旧植民地博物館:ポルト・ドレ宮殿がある。
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復古王政期ブルボン朝のルイ18世が荒廃していたヴォージュ広場を再整備した際に、広場中心の” ルイ13世スクエアー”の四方に噴水を設置した (1829) 。
南西側の噴水から紅葉した枯葉が若干残るマロニエの中にルイ13世の騎馬像が見えている。左側(北)の建物は王妃の館 Pavillon de la Reine 。2012.11.19.
パリの公園樹 les arbres des jardins à Paris 9種 。
上段左から右へ
IF:ヨーロッパ一イチイ
Mûrier blanc:トウグワ
Savonnier de chine:ムクロジ
Paulownia:キリ
Catalpa:キササゲ
Frêne à fleurs:トネリコ
Aubépine:サンザシ
Arbre de Judée:セイヨウハナズオウ・ユダの木
Cerisier à fleurs:ヤマザクラ
樹形、葉、花、実 が描かれていて分かりやすい。
パリ市の広報板。”サン・ジャックの塔公園” にあったもの。
* 通勤・通学・通院・日用品買い物・ペットの散歩などを除く外出禁止令を発令。12月1日まで海外領土を除くフランス全土が対象。
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和気清麻呂像のある大手濠緑地からの大手町ビル群の夜景。
右端に明かりが見えるのがトランプ大統領が泊まったパレスホテル東京 (2012) 。左へ、パレスビル (2012) 、大手門タワー・ENEOSビル (2015) 、パークビルディング (2017) 、三井物産ビル (2020) 、左端に気象庁。
濠沿いの内堀通りが環状1号線。今晩も大勢のランナーがいた。
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ジャン・コクトーの家の正面の内側はボンデ城 (手前側にある) に接する広大な庭になっている。邸内を共同洗濯場で見たエコール川が流れている。ここからは見えないが、カメラ方向直ぐにノートルダム教会がある。これらを合わせた一帯は「絵のように美しい場所の目録 Inventaire des sites pittoresques」に掲載された (1972) 。
ジャン・コクトーの家の正面
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ニューヨーク近代美術館 (MoMA) で見た サルバドール・ダリの作品<回顧的女性胸像 Retrospective Bust of a Woman (1933)>。
ジャン=フランソワ・ミレーの<晩鐘 (1857-59)>にはダリにとって少年期の性的恐怖体験があった。<ミレーのアンジェルース (1933)>と同年の作品。
晩鐘のお告げの祈りのシーンの両側に置いたペンとインク壺 (男女) を載せたパン (男性器) は垂れている・・顔面を這う蟻は死を。首輪のゾートロープ (回転のぞき絵) が回顧的を。
”マリリン・モンロー (1962) “ の写真は見当たらなかったが、”キャンベルのスープ缶 (1962) ” やダリのこの作品はあった。 2005.12.23.
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アンディ・ウォーホル Andy Warhol (1928-87) が描いたジャン・コクトー (1889-1963) の肖像画 (1983) とそのスクリーンプリント。ミリ=ラ=フォレのジャン・コクトーの家 Maison de Jean Cocteau 所蔵。
アンディ・ウォーホルはジャン・コクトーに強い影響を受けたといい、同性愛者の共通点もあった。コクトー没後20年に出版された書物の表紙の写真を使用した。
代表的なポップアーティストで ”キャンベルのスープ缶 (1962) ” や ”マリリン・モンロー (1962) “ 等の作品がある。
右の写真はニューヨーク近代美術館 (MoMA) の公式ホームページより借用した。
背景を金色にしたヴァージョン。モンローが死去した直後の作品で、映画「ナイアガラ Niagara」の映像を使った。
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ジャン・コクトーがパレロワイヤル (36 Rue de Montpensier) の煩わしさから逃れて晩年を過ごしたミリ=ラ=フォレのジャン・コクトーの家 Maison de Jean Cocteau 。
書斎からの入り口にはドアノッカーが付いている。デザインの異なる3脚の椅子は居間と書斎のものとも違う。暖炉の上の彫像は母方の祖父から受け継いだものらしい。
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ジャン・コクトーがパレロワイヤル (36 Rue de Montpensier) の煩わしさから逃れて晩年を過ごしたミリ=ラ=フォレのジャン・コクトーの家 Maison de Jean Cocteau 。
居間 Salon では、恐らくコクトー選りすぐりの愛用品の数々を見ることができる。椅子を見るだけでも分かる気がした。 2014.08.07.
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ジャン・コクトーがパレロワイヤル (36 Rue de Montpensier) の煩わしさから逃れて晩年を過ごしたミリ=ラ=フォレのジャン・コクトーの家 Maison de Jean Cocteau 。右側の寝室につながる書斎の机と二つの椅子が素晴らしい。
机上に絡み合った男女の置物がある。春画も壁にかかっていた。 4015
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角の橋 Pont de la Corne から見たボンデの共同洗濯場 Le lavoir de la Bonde (1883) 。月に1~2回使用された。各戸で漬け(洗い)置きした洗濯物をまとめてここで濯いだということらしい。ノートルダム教会の尖塔が見えている。ジャン・コクトーの家 Maison de Jean Cocteau はすぐ右側だ。
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ミリ=ラ=フォレに残っている15世紀の卸売市場 La Halle 。
1479年にルイXIの特別な恩寵により、ミリー卿のデグラビル提督が市場を構築して、毎年3回のフェアを開催し毎週市場を開く権利を取得して以来の建物。
当時のイル・ド・フランスの典型的な木枠組みを石の台座に48本のオークの柱が支えている。こちらは切妻型になっているが、反対側はパヴィリオン型。
右側から見ると‥右側 (正面) が切妻型でないのはわかる。
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エクーアン城 Château d’Écouen (1538-50) の入り口。国立ルネサンス美術館 (1977) の表示がある。
右側はアンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスが休暇を過ごす居室になっていた。建設途中にアンリ2世がフランスの王位に就き (1547) 、王室のアパートを収容するように城の計画と装飾が変更されて準王城の役目を果たした。アンリ2世の用いたクロワッサン (三日月) とモノグラム DH が外壁に残っている。
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中央競馬の東京府中競馬場に対し特別区主催の地方競馬の大井競馬場。東京モノレールの大井競馬場前付近から。自身にとって競馬の原点は姫路競馬場と阪神競馬場。海外ではパリのヴァンセンヌ競馬場。
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多摩川河畔を走る東京モノレールの車窓から羽田空港整備場方向を見たところ。
中央にお台場のレインボーブリッジ、その左に東京タワー (333m) 、その間で最も高く見えるのが虎ノ門ヒルズ森タワー (256m) 。
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岡山空港のJAL ラウンジの様子。ソーシャルディスタンスはなくなり通常に戻っていた。席の間に臨時の仕切りパネルが設けられている。
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<犬のカーニヴァル Chiens savants ou Le Carnaval des chiens (1922)>。自作の乳白色の画材を用いた<モンパルナスのキキ>で成功を収めた年の作品。個人蔵。
上段に懸けられているのはジュイのトワル toile de Jouy 。ヴェルサイユに近い街ジュイ=アン=ジョザ Jouy-en-Josas で生産され (1759) インディアンの名で有名になった更紗 Chintz だ。ここで使われているのはジロンド県のボーティラン Beautiran で織られた「愛の芸術 L’art d’aimer (1800 頃)」という名の作品で、Musée de la Toile de Jouy で観れる。
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藤田嗣治による<モンパルナスのルパナール Lupanar à Montparnasse (Vers 1930)>。<モンパルナスのサロン Le salon à Montparnasse>とも。Musée du Petit Palais Genève 所蔵。
ルパナールは売春宿のこと。モンパルナスには最初の高級売春宿 Le Sphinx (maison close)が開業(1931-46) し、藤田嗣治等の画家や作家などが出入りした。
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JR 宝塚線の宝塚から京都線の高槻行きに乗って乗り換えなしで新大阪に出た。
新大阪駅構内では行きつけだった浪花そば (エキマルシェ新大阪店)に <たこ焼きうどん>があったので食べてみた。朝食と” うを喜の磯巻きと海苔巻き” で満腹だったのだが・・
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JR 宝塚線 (福知山線) の宝塚駅との連絡通路からの阪急宝塚駅。<クレッシェンド Crescendo>と題した廃楽器のオブジェが左に見える。フランス人現代美術家 アルマン Arman (1928-2005) の作品。武庫川畔にはフランスの抽象彫刻家マルタ・パン Marta Pan (1923-2008) 作の<枠どられた風景>がある。
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長らく改修中だった大阪国際空港・ITAMIのターミナルがオープンしていた (2020.08.05) 。
空港内レストラン街の様子。左側の奥が左方にある JAL のバゲージクレームへの通路。
火を吹きながら帰還する日の丸機がもう一息のところで田圃に墜落する様に呆然とした記憶に始まる伊丹空港との思い出は多い。
* 来年夏のパリ行きチケット確保しました。
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修験道の開祖 役小角 (えんのおづぬ) / 役行者 (634-701) が修業(しゅうぎょう)し、弁財天の導きを受けて真理を悟った (658) と伝わる<箕面大滝>。
33m の名瀑。空海が修行(しゅぎょう)し、織田信長は観たという。
今回猿に出会わなかったのが不思議だった。
夜中に猿の軍団に取り囲まれて怖かった思い出もあるのだが・・
* 弁財天はセオリツヒメ、
役氏はニギハヤヒ、オオタタネコの流れかと。
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大阪を直撃した超大型風台風:2018年21号台風による箕面川筋の倒木は「瀧安寺の鳳凰閣」などに大きな被害を生ぜしめた。箕面の滝へあと10分付近に残る爪痕。
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瀧安寺 (りゅうあんじ) も役小角 / 役行者が弁財天像を安置し箕面寺と命名した (658) ことに始まり、隠岐に流された後醍醐天皇還御の祈願がなり建武の中興において寺号を賜ったという。
箕面富:富籤 (とみくじ) 発祥の地としても有名。
「瀧安寺山門」は京都御所から移築された (1809) もので、瓦に十六弁菊花紋、塀は5本の定規筋。奥に見える「観音堂」は大政所の寄進とされる (2002再建) 。「本堂(弁天堂)」と「行者堂(開山堂)」はその奥左にある。また、鳳凰閣、本坊は右側 (2018・21号台風災害復旧工事中) 。
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大正末期に建築された音羽山荘(箕面川右岸)付近。古くからの建物がある場所に差し掛かると涼しい風が通っている。
左岸には 役小角 / 役行者開山の日本最初の根本道場 (658):西江寺(さいこうじ)の写経場。
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子供の頃から数えて30回は通った箕面滝道。
役小角 (伝 634-701) / 役行者 が修行した場所。標識にあるように、阪急箕面線箕面駅から0.4km、滝へ2.4㎞地点、箕面川を渡る一の橋。手前が上流。
* 敬老の日には養老へ
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「宝塚ハイボール」というのがあったので生ハムのサラダを肴に飲んでみた。ジョニ黒のハイボールに宝塚の象徴の「スミレ」の香り付けをしたものらしいが・・女性好みかと。
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45期 囲碁名人戦 芝野虎丸名人対井山裕太棋聖 第2局の2日目が進行中の「宝塚ホテル」。
それを窺わせるものは見当たらない。今年5月14日に宝塚大劇場横に移転オープンした。
挑戦者の井山棋聖が中押し勝ち。椿山荘での第1局に続き2連勝。
コロナのせいか今回はひそかに対戦が行われたようです。 21100
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ルネサンス美術館が入っているエクーアン城 Château d’Écouen (1538-50) の正面。右上とその左空濠手前の鉄門扉右端の間に建設者であるアンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency (1492-1567) の紋章が残っている。名門貴族モンモランシー家の出でフランソワ1世、アンリ2世等に仕えたフランス元帥。名の由来モンモランシーはここから南東数キロ。
父が遺贈されたシャンティイ城で生まれ、改造したことでも知られる。彼の騎馬像が城の正面に置かれている。
45期 囲碁名人戦 芝野虎丸名人対井山裕太棋聖 第2局 ”宝塚ホテル” で始まる。
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フレンチバロック:フレンチクラシック様式の傑作とされてきたメゾン城 Château de Maison (メゾン・ラフィット城) (1630-51) 。傾斜のきついマンサード屋根が目立つ。
フランソワ・マンサール François Mansart (1598-1666) によるこの城はその後のヴォー=ル=ヴィコント城 Château de Vaux-le-Vicomte (1656-61) 、ヴェルサイユ城(宮殿) Château de Versailles (1661-65) 等のシャトーの規範となった。
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ブランデンブルク選帝侯でプロイセン公 (在位:1640-88) のフリードリヒ・ヴィルヘルム Friedrich Wilhelm (1620年-1688) が制作を依頼したことに始まる (1660 ou 1670) セダン型馬車。彼はこの馬車を使用して、ブランデンブルクのベルリンからフランスのパリまで行きセンセーションを巻き起こした。当時の他の車体より耐久性に優れ、便利で、軽量で、転倒の可能性も低かったからだ。パリではベルリンに因んで<berline>と呼称した。今もセダン型自動車をフランス語ではベルリン berline という。 馬車博物館 Musée des équipages にて。
車体にある紋章はヴォー=ル=ヴィコント城の現在の所有者ヴォギュエ一族 Famille de Vogüé の紋章。。前に御者席(エンジン)、後に荷台が完全分離されている。
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ヴォー=ル=ヴィコント城 (1661) の正面「三角破風 Fronton triangulaire」。ここに見られる紋章はニコラ・フーケのものではない。後に購入 (1764) し、建物部分に手を加えたルイ15世の外務大臣・海軍大臣を務めたプラズラン公セザール・ガブリエル・ド・ショワズール César Gabriel de Choiseul, duc de Praslin (1712-85) が属す名門貴族ショワズール家 Maison de Choiseul の紋章だ。紋章は内側をサン=ミッシェル勲章 Collier de l’ordre de Saint-Michel 、外側を聖霊勲章 Collier de l’ordre du Saint-Esprit のネックレスで囲まれている。
フーケ Nicolas Fouquet (1615-80) がルイ・ル・ヴォー Louis Le Vau(1612-70) に命じて建造した (1661) ヴォー=ル=ヴィコント城をルイ15世の外務大臣・海軍大臣を務めたプラズラン公セザール・ガブリエル・ド・ショワズール César Gabriel de Choiseul, duc de Praslin (1712-85) が購入 (1764) して建物部分に手を加えた。フランス革命で没収後、アルフレッド・ソミエ Alfred Sommier (1835-1908) が購入し (1875) 、修復した。古典主義建築。 2014.08.02.
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ルノワール Auguste Renoir (1841-1919) がココの胸像 Bust de Coco (1907~1908) を制作してから約1年後に描いた<ピエロに扮したクロード・ルノワール Claude Renoir en clown (1909)>。オランジュリー美術館で観れる。高さ120㎝ の等身大で描いたとみられている。
マネの<剣を持った少年 L’Enfant à l’épée (1861)>(メトロポリタン美術館所蔵) にポーズが似ているとも。
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ルノワール Auguste Renoir (1841-1919) 60歳の時の三男クロード (幼少時ココ Coco と呼ばれていた) の胸像。
マイヨール Aristide Maillol (1861-1944) の影響を受けて彫刻にも関心を持つようになった (1906) ようだが、自らの手て制作したのは「ココの胸像 Bust de Coco (1907~1908)」他1点だけという。
プチパレ美術館所蔵のこのブロンズ作品には 21/30 の刻印がある。
また、妻の死後 (1915) 邸内に陶芸窯 “Les Collettes” を造り息子に陶芸を教えた。
クロード・ルノワール Claude Renoir (1901-69) は長じて陶芸家となった。
二頭のラバが運ぶ椅子 Chaises à Mules 。馬車では通れない狭い道や悪路などに人力で使用された「セダン椅子 / 椅子駕籠 Chaises à porteurs」の一種。セダン椅子 は馬車よりも手軽なことから18世紀にはヨーロッパ各地に普及した。日本の手輿のようなもの。
フーケ Nicolas Fouquet (1615-80) が建設したヴォー・ル・ヴィコント城 (1661) の “馬車博物館” で展示されている。18世紀にフランスかポルトガルで制作されたラバ椅子と考えられている。
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クラクフのカジミェシュ地区はユダヤ人が多く居住するシュテットル Shtetl で元は独立した自治体だった。
15世紀にチェコから移住してきたのが始まりらしい。地区内には複数のシナゴーグ (ユダヤ教の会堂) があるが、スタラ Stara・シナゴーグ Vieille Synagogue (1407 or 1492) はポーランドで現存する最古のシナゴークであり、”クラクフ歴史博物館分館” になっている。
バウォシュ広場 Place Bawół の北端から戦後復元されたゴシック・ネオルネサンス様式 (1560頃) の建物全景。四隅にあるレンガ造りの小尖塔 pinacle の内の2基が見えている。
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カジミェシュ3世 (在位:1333-70) が創設したヤギェウォ大学 (1364-1816 :クラクフ大学) の本部があるコレギウムノヴム Nouveau Collège (1887) 。ネオゴシック様式で往古の建物風に再建された。中央に王冠を載せた白鷲の国章がある。また、左の花壇には “コペルニクスの記念碑” がある (台座しか見えていないが) 。
クラクフ大学 (1364) にはコペルニスク Nicolas Copernic (1473-1543) が在学 (1491-95) 、世界最古の大学 (1088) ボローニャ大学に進んだ (1496-1500) 。彼が学んだコレギウムマイウス Collegium Maius (1400頃) は左のゴウェンビャ通りに入って左折したところ。
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クラクフは朝夕、非常時等に城壁の門の開閉を告げるためにラッパを鳴らすという中世の伝統を今日まで伝える世界で唯一の都市だそうだ。
中央市場広場の北東端に、1406年には完成していたとされる煉瓦造りのゴシック建築:聖マリア聖堂 Basilique Sainte-Marie de Cracovie の北塔はトランペッターの塔 Tour du trompettiste と呼ばれ、毎正時「聖マリアの夜明け Hejnał」を演奏し続けている。1241年のタタール人襲撃の逸話を象徴しているという。
北塔の頂部に尖ったゴシック様式の “多角形のヘルメット” を被せ (1478) 、”黄金のマリアの王冠” で飾り (1666) 、クラクフの監視塔として機能してきた。バロック様式のポーチ (玄関) は18世紀中頃に付け加えられた。
聖マリア大聖堂はヴァヴェル城、織物会館と共にユネスコ世界遺産登録第1号 (1978) の<クラクフ歴史地区>の代表建造物。<アダムミツキェヴィチ記念碑 (1898)>が右手前に。
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中央市場広場の織物会館で行われた交易でクラクフの輸出品目は織物、鉛、岩塩等だった。
クラクフ南東に隣接するヴィエリチカ (2000万年前には海だった) にあるヴィエリチカ岩塩坑 Mines de sel de Wieliczka (1044創業、1250 国営-1996 観光に特化) を見学した。「廃坑になっていない世界最古の岩塩坑」で、ユネスコ世界遺産登録第1号 (1978) 12件の一つ<ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群>。
深さ 327m、坑道延長 300㎞、急なシャフト(立坑梯子階段)で延々と下る。昇りは換気口を兼ねたマインシャフトのエレヴェーターで。”聖キンガ礼拝堂” のある大空間は圧巻だった。
マインシャフトを通して岩塩を搬出するためのヘッドフレーム Arbre Daniłowicz (1640) が中央に (D.は当時の鉱山マネージャーの名) 。塩坑のロゴ。
<クラクフ歴史地区>も最初の12件の世界遺産に含まれている。
朝パリを出て12時11分 (2008.08.09.) にはポーランドの古都クラクフ:クラコヴィの中心:中央市場広場にいた。手荷物はホテル ポッド ロザ Hotel Pod Różą に預けた。
広場の北側から見たクラクフの市庁舎の塔 Tour de l’Hôtel de Ville de Cracovie (15世紀) 。左に織物会館の西面。「アダム・ミツキェヴィチ Adam Mickiewicz (1798-1855) の記念碑 」は東面の前にある。遠くに見える鐘楼 (南方向) はヴァヴェル城内の “ヴァヴェル大聖堂の時計塔” のもの。その下部を隠している建物はポトッキ宮殿 Palais des Potocki 。
旧市庁舎が解体され見えるようになった市庁舎の塔の入り口前には「第9回宮廷舞踊フェスティヴァル IX Festival Tańców Dworskich」の特設ステージが設けられている。
クラクフ:クラコヴィの中央市場広場 Place du marché principal de Cracovie (1257:4ha) に残るクラクフの市庁舎の塔 Tour de l’Hôtel de Ville de Cracovie (15世紀) 。北側 (右) 西側 にあった市庁舎 (1300₋1820) の南東角に当たる。
右手前の建物は広場の中心 織物会館 Sukiennice (Halle aux Draps ) (13c) 。ネオゴシック様式のオジヴァルアーチのギャラリー (19世紀) が見えている。正面左端 (広場の南西端) の建物は牡羊宮殿 Palais aux Béliers 。
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フロリアン門 Porte Florian の護りを強化するため、城外側に一体として設置されたパービカン/バルバカン Barbacane 。門の両側との接続壁の一部は撤去されている。
フロリアン門の城外側の塔に「ピアスト鷲 Piasto Aigle」の浅浮彫 (1820) 。ポーランド王プシェミスウ2世(在位:1295₋96) が初めて使用したとされる (1295) 白鷲の紋章 で、ピアスト朝から現在に至るまで形を変えつつも使われ続けてきたポーランドの象徴。
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旧クラクフの市街はヴァヴェル城 Château du Wawel と連携した城壁で囲まれており、現存するフロリアン門 / 聖フロリアン門 Porte Florian 等 8つの門があった。
フロリアン門 付近の城壁は残されることとなったが、19世紀初頭に解体された城壁跡はプランティ Planty 公園となっている。
城内のフロリアンスカ通りから見た “聖フロリアン” の浅浮彫の付いたフロリアン門 (13-14世紀) と 両側の城壁。
塔の部分はチャルトリスキ家の家族礼拝堂として改築された (1889) 。
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14 世紀に建造された城壁上の塔で「泥棒の塔 Tour des voleurs (1843 再建)」と呼ばれる。後に下層の囚人の牢屋として使用されたことによるらしい。下段の石積みとその上の段:右奥に残る城壁に寄り掛かる建物の高さで手前側に城壁があった様子を窺える。「サンドミエルスカ塔 Tour Sandomierz 」(後に、上層の囚人の牢獄として使われた) までヴァヴェル城 Château du Wawel の城壁の痕跡が残っている。右の建物はオーストリア領時代にその位置に建設された旧病院 (1856) 。寄棟の屋根が復元された (2015) 。 2008.08.10.
<参考> 対岸から見たヴァヴェル城 (2009 , Castillo de Wawel より借用)
「泥棒の塔」と「「サンドミエルスカ塔」との間にも「泥棒の塔」の左に残るヴァヴェル城の城壁があった。
ヴァヴェル城 Château du Wawel からヴィスワ川 La Vistule / Wisla を見下ろしたところ。
クラクフ/クラコヴィは水源のチェコ、スロバキア国境に近い上流部の古都とあって大河には見えないが、ワルシャワ/ヴァルソヴィを経てバルト海に注ぐ流域面積:194,424 km²、長さ:1,047 km の大河だ (セーヌ川:78,650 km²、780 km) 。ウクライナ、ベラルーシの一部を流域に含む国際河川。 2008.08.10.
<参考> 対岸から見たヴァヴェル城 (2009 , Castillo de Wawel より借用)
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サンドミエルスカ塔はヴァヴェル城 Château du Wawel の南西端にあり、大砲塔 (火の塔) としてカジミェシュ4世 (在位:1447-92) によって建設された (1462 , 1856再建) 。
ポーランド王国 (1025-1795) は第3次分割によりすべての領土を失い、クラクフ:クラコヴィはオーストリアの領土となった。ヴァヴェル城への入り口の一つ、ベルナルディスカ門 (1849-54) はナチスドイツによる占領下に改築された (1942) 。
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ヴァヴェル大聖堂の南側、ジグムント礼拝堂等に沿って東に進むと、ヴァヴェル城 Château du Wawel の中庭に出る (左に入口) 。
アレクサンデル (在位:1501-06) とジグムント1世 (在位:1506-48) によって現在見るルネサンス様式に改装された (1516-36) 。
12年前のこの日 (2008.08.10.) は Cracovia Danza による第IX回 宮廷舞踊フェスティヴァル IX Festiwal Tańców Dworskich の最終日だった。
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ポーランド王国 (1025-1795) の旧都クラクフ/クラコヴィ Cracovie (1025-1596) のヴァヴェルの丘にある王宮:ヴァヴェル城 Château du Wawel とゴシックを基調とするヴァヴェル大聖堂 Cathédrale du Wawel 。ヴァヴェル城は右方から左方のヴィスワ川 La Vistule 河畔に展開する。
金色のドームを持つ礼拝堂はジグムント1世 (在位:1506-48) が命じたルネサンス様式のジグムント礼拝堂 (1519-33) 。この前を東(右)に進むとヴァヴェル城の中庭に出る。
大聖堂の正面 (1619) はバロック様式で右側の塔が “銀の鐘の塔 Tour des cloches d’argent ” 。その右奥の鐘楼がジグムントの塔 Tour Sigismond 、ジグムントの鐘 (1521) は20年前までポーランド最大だった。正面左に時計塔 Tour de l’horloge 。
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ナント駅 Gare de Nantes の目の前にあるナントの植物園 Jardin des plantes de Nantes (7.328ha : 1806) 。約11,000種の樹木と植物が植えられているという。樹齢220年のタイサンボク Magnolia grandiflora や 600 品種のカメリア (椿) で有名。
パリ・モンパルナスへの乗車手続きを終えてから立ち寄った。駅前広場には当時 (2008.08.03.) タイサンボクの並木と日蔭があった。
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ナントのサン・ピエール・サン・ポール大聖堂 Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes (1434-1891) をブルターニュ公爵城の城壁の上から見たところ。ゴシック様式。
西側正面の北側の塔は修復工事の完了間際で地上階には足場が残っていた (2008.08.01.) 。
アミアンの<美しい神 Le Beau Dieu>が置かれることの多い中央の中柱 Trumeau にはサン・ピエール (聖ペテロ) Saint Pierre の像が。
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濠側から見ると・・黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or の2基の尖塔が見える。
ジャコバンの塔 Tour des Jacobins (左) と港の塔 Tour du Port (右) の間にあるグラン・ロジス Grand Logis の屋根裏部屋の窓はブルターニュのアン Anne de Bretagne (在位:1488-1514) が追加したもの。中庭側の天窓に比べると簡素な造りになっている。
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(元) ロワール川側から見たブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne のグラン・ロジス (大住居) Grand Logis と黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or 。濠とジョン・ケネディ広場 Cours John Kennedy になっている城壁の手前は元々ロワール川で、城壁にロワール川へ通じる隠し戸 Poterne de Loire が付いている。
アーミンをちりばめたナントの市旗 Drapeau de la ville de Nantes がはためいている。
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ブルターニュ公の住居だった (1207₋1532) ブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne 。中央の黄金の王冠の塔 Tour de la Couronne d’Or の左翼を Grand Logis 、右翼を Grand Gouvernement と呼び、右翼が公爵の住家だった (ロワール川に沿う Petit Gouvernement 共々) 。実質最後のブルターニュ公フランソワ2世 François II de Bretagne (在位:1458-88)と娘のアンヌ女公 Anne de Bretagne (在位:1488-1514) によるところが大きい、(炭酸塩堆積物)トゥファ石 pierre de tuffeau を使用したルネサンス様式の建物。
塔の前に井戸がある。右端馬蹄形の入り口階段部分はルイ14世の時代に改築されたもので、この向こう側が城への正面入り口になる。
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ナントのブルス広場 Place de la Bourse の旧証券取引所宮殿 Palais de la Bourse (1790-1815) (2008.08.01.)。グラスラン劇場 Théâtre Graslin (1788) の建築家マチュラン・クルシー Mathurin Crucy (1749-1826) による新古典主義建築。イオニア式列柱の上部にあった10体の彫像は第二次大戦で破壊された (2019 復元) 。
並木のブルス通り Allée de la Bourse のこちら側は元々ロワール川(港)で広場周辺は造船所だった。ナントは奴隷貿易で繁栄した。
後方にブルターニュタワー Tour Bretagne (1976,144m) と新ゴシック様式の Basilique Saint-Nicolas de Nantes (1869) の尖塔。
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今では自走式の大きい象 Grand Éléphant (2007) を知っている人は多いと思うが、その象が画面左にいる (2008.08.01.) 。ロワール川 (道路の向こう) の中州:ナント島にある造船所跡地 (造船所公園 Parc des Chantiers) の風景。ナントの造船所 Ateliers et Chantiers de Nantes (1914-17) とある建物はその遺構 (現 Maison des Hommes et des Techniques )。
象の後方の建物 Les Machines de l’île が ”機械で動く乗り物のギャラリー Les Galerie des Machines” などを収容している。象 (高さ12m、幅8m) の背に乗れる人数は52名 。
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フランス革命の直前に建設されたナントのオペラハウス<グラスラン劇場 Théâtre Graslin (1788)>。左右の建物を含む6棟の建物と共に半円形のグラスラン広場を構成する。マチュラン・クルシー Mathurin Crucy (1749-1826) による新古典主義建築。
コリント式列柱の上部にドミニク・モルクネヒト Dominique Molknecht による8体のミューズが追加された (1825) 。
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サン=ピエール門 Porte Saint-Pierre は ガロ=ロマン Gallo-Romaine 時代からの城壁の位置で土台を生かして建設された。13世紀初頭には濠と跳ね橋が追加された。手前が城内。アンリ4世はこの門を潜って城内に入りブルターニュ公爵城でナント勅令を発した (1598) 。
サン=ピエール門を出たところのフォッシュ元帥広場に置かれているのはルイ16世記念柱 Colonne Louis XVI (1790-1823) 。当初は自由のコロン Colonne de la Liberté の建造が目的だったらしい。尖塔は Église Saint-Clément (1839-75) 。
ナント大聖堂前のサン=ピエール広場からサン=ピエール門と旧パリ道を(2008.08.01.) 。
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ナント Nantes の「エルドル川古城クルーズ」乗り場からエルドル川 La Erdre の下流方向を見たところ。
右側の緑は中州でヴェルサイユ島。真直ぐ前の左派流はナントの町の中心部を向いていて、左にゴシック様式のナント大聖堂 Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Nantes (1434-1891) (ブルターニュ公爵城 Château des ducs de Bretagne はその向こうで見えない) 、正面にロワールアトランティック県庁舎、右にナント市庁舎等がある。
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ロワール川 La Loire にナント Nantes で合流する右支流エルドル川 La Erdre 。ルネサンス王フランソワ1世 François Ier (1494-1547) が<フランスで最も美しい川>と呼んだという。
Bateaux Nantais が運行する古城クルーズに乗船した時の写真 (2008.08.02.) 。
右写真及び下写真中央のガスチェリー城 Château de la Gascherie はブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュ Anne de Bretagne の重臣によって15世紀後半に建設され、17世紀に買収した貴族シャレット家のガスチェリー侯爵が居住した (1775) 。上流右奥に見えるのは Château de Nay (19世紀) 。
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フランス革命の最中に完成した (1790) この広場はルイ16世広場となる予定だったが、インペリアル広場を経てロワイヤル広場となった (1814) 。噴水は後に追加された (1865) 。
水盤の上に載る大理石の戴冠の女性は<ナントの寓意像 Statue allégorique de la ville de Nantes>で、最下段正面の ”ロワール川 La Loire の寓意像 (両手の壺から噴水) ” などナントに恩恵をもたらす川や海や商工業等のブロンズ寓意像を見下ろしている。いずれも ダニエル・デュコムン・デュ・ロクル Daniel Ducommun du Locle (1804-84) の作品。
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シャンゼリゼ大通り等 12 本の放射道路を持つシャルル・ド・ゴール広場 (エトワール広場) を取り囲む鉄柵。マック=マオン大通り Avenue Mac-Mahon (右) とカルノ大通り Avenue Carnot (左) の間の鉄柵の例。このブロックは在仏ベルギー大使館が所有、使用している (1951) 。
ナポレオン3世の勅令 (1854) により、鉄柵の敷石・高さ・デザイン、花壇等厳しい規制がなされている。エトワールの凱旋門を中心とするエトワール広場の美観を保つためだ。
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シャルル・ド・ゴール広場のワグラム大通り Avenue de Wagram 側から見た早朝の “エトワールの凱旋門” とエッフェル塔。
左側がシャンゼリゼ大通り Avenue des Champs-Élysées 。 2015.07.09. 6:40
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ミノタウロス Minotaure はギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物。男をなぶり殺し、女を凌辱し快楽の限りを貪る怪物とされる。
ピカソ Pablo Picasso がエッチングした<La Minotauromachie (1935)>の解釈には諸説あるようだが・・ミノタウロスはピカソ自身であり、はらわたの出た瀕死の雌馬がオルガ Olga Picaso であり、その背に乗りかかっている闘牛士のいでたちの女性が妊娠中のマリー・テレーズ Marie-Thérèse に見えてしまう。 パリのピカソ美術館にて。
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写真家で画家のドラ・マール Dora Maar (1907-97) はピカソ Pablo Picasso (1881-1973) の代表作 ”ゲルニカ Guernica (1937) ” の制作過程を記録したことで知られるピカソの愛人 (1936₋43) 。
前の愛人マリー・テレーズ・ウォルター Marie-Thérèse Walter (1909-77) との関係も続いていた。両者はゲルニカのモデルに使われているという。
<ドラ・マールの肖像 Portrait de Dora Maar (1937) >、キャンバスに油彩とパステル。
暗い色調で描いている。
パリのピカソ美術館にて。
*池袋の人出も相当でした。有名店のコロナ対策は行き届いているように感じました。
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マリー・テレーズ・ウォルター Marie-Thérèse Walter (1909-77) はピカソ Pablo Picasso (1881-1973) の愛人 (1927-35頃) で、美術史家 マヤ・ピカソ Maya Widmaier-Picasso (1935-) の母。モデルであり画家だった。ピカソの死から4年後首吊り自殺した。
<マリー・テレーズの肖像 Portrait de Marie-Thérèse (1937)>。キャンバスに油彩。ブロンドで華やかで明るい女性に見える。
パリのピカソ美術館にて。
この頃写真家で画家のドラ・マール Dora Maar (1907-97) が愛人(1936₋43) だった。
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ピカソ Pablo Picasso (1881-1973) が上流社会に進出する道を開いたオルガ・ホフロバ Olga Khokhlova : Olga Picaso (1891-1955) の肖像:<肘掛け椅子のオルガの肖像 Portrait d’Olga dans un fauteuil (1918)>。
1918年の春、ピカソのモンルージュスタジオの豪華な織布の肘掛けと背もたれのある椅子に座っているところ。
7月に結婚、1921年にポール Paul Picasso を出産する。マリーテレーズウォルター Marie-Thérèse Walter との不倫 (1927) 、妊娠を知って (1935) 離婚を申し立てるが不成立、生涯別居生活。カンヌでの葬儀にピカソは参列しなかったという。
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フランソワ・ミロン通りに残る中世の住居 Maisons du Moyen Age 。
二棟 (Maison a l’Enseigne du Faucheur et Maison a l’Enseigne du Mouton) いずれも16世紀初頭の存在が確認されていて、14世紀迄遡れるとされている。
火災防止のため木組みが石膏で覆い隠された (1607) が、1967年に元の状態に復元された。
当時住居に地番はなく、”刈る人の看板のかかった家”、”羊の看板の家”などと言っていた。
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ティツィアーノ Titian (1485-1576) による<エウロペの略奪 The Rape of Europa (1559-62)>の約三分の一縮小模写。作者不詳・18世紀の作とみられていて、ウォレスコレクション The Wallace Collection にあるもの。
牡牛に変身したゼウスがフェニキアの古代都市テュロスの王女エウロペを略奪しクレタに連れ去ろうとしているところ。エウロペはヴェールを振って助けを求めクピド/キューピッドの矢を避ける仕草の一方で牡牛の角をしっかり握っている。海を渡ったエウロペはクレタの王等を生みヨーロッパの語源となった。
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レジオンドヌール博物館から見たオテル・ド・サルム Hôtel de Salm の中庭。渦巻飾りのイオニア式列柱が相対して並ぶ。
サルム館はザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世がパリに建設した私邸。新古典主義の建築家ピエール・ルソー Pierre Rousseau (1751-1829) の作品 (1787) 。
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右側の東改札の文字のある柱の左右にJR 新宿駅北通路の東口改札があった。画面奥には西口改札があった。この両改札を廃止し、通路を拡幅して(17m⇒25m) 東西自由通路 が誕生した。
この日(2020.07.29.)発表の週間天気予報では8月1日は曇り時々雨となっているが、実際は朝から晴れで梅雨明けを宣言した。
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新宿東口広場の南端に”パブリック・アート” が登場した。現代美術家・松山智一の作品で、「Metro-Bewilder メトロ=ビウィルダー 都会・自然・当惑」がコンセプトという。造形は<花束を持っている少年>。
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スコットランド国立博物館 National Museum of Scotland の屋上から見たカールトンヒルの頂上にある<ネルソン記念碑 The Nelson Monument (1805-16)>。ここからはその右に<スコットランドの国民記念碑 National Monument of Scotland (1826-29)>が見える。
望遠鏡の形をしたネルソン記念碑はトラファルガーの海戦 (1805) でフランス・スペインの連合軍に勝利し、戦死したホレーショ・ネルソン Horatio Nelson (1758-1805) を記念して建設された。因みに、ロンドンのトラファルガー広場のネルソン記念柱 (1843) はずっと後。
丸い球は Time ball と呼ばれ、エディンバラ港に停泊中の船に午後1時の時刻を告げるために追加された (1852) 。1時前に上方に吊り上げ1時丁度に落下させることで時刻を告げる仕掛けだが、霧がかかると見えないのでエディンバラ城に One O’Clock Gun を補完した (1861) 。
ゴシックリバイバル様式の尖塔はロイヤルマイル Royal Mile に面した元教会で現イヴェント会場の The Hub 。
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アテネのパルテノン神殿をモデルにした<スコットランドの国民記念碑 National Monument of Scotland>。右上のカールトンヒルに見える。ナポレオン戦争 (1803-15) で亡くなった兵士と船員のための慰霊碑(1826₋29)だが未完。
画面中央左には<王立スコットランド・アカデミー The Royal Scottish Academy (1836)> 、その右に<スコットランド国立美術館 Scottish National Gallery (1859)> 、いずれも新古典主義様式のギリシャ風建築。鉄道の通る谷地を埋めた”マウンド The Mound” と呼ばれ、エディンバラの旧新市街地を結ぶ南北の主軸。エディンバラ城より。 2013.07.31.
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エディンバラは 北のアテネ Athens of the North と呼ばれる。それを頷かせる建物の一つがロイヤル・スコティッシュ・アカデミー The Royal Scottish Academy (1836) 。
破風の上にヴィクトリア女王の座像 Statue of Her Imperial Majesty : Queen Victoria とスフィンクスが付け加えられた (1844) 。
背後に見えるゴシックリバイバル様式の尖塔は元教会で現イヴェント会場の The Hub 。ロイヤルマイル Royal Mile に位置し、エディンバラのランドマークの一つ。 2013.08.01.