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熊野本宮大社の鳥居横の茶房 珍重庵 本宮店で熊野 もうで餅を頂きました。
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熊野本宮大社の鳥居横の茶房 珍重庵 本宮店で熊野 もうで餅を頂きました。
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熊野速玉大社の神門には、立派な左末右本の大注連縄の上に「全国熊野神社 総本宮」の扁額。
正面に上三殿と鈴門(礼拝所)が見えています。拝殿は左方になります。
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熊野本宮大社の神門です。賑やかな飾り付けがされています。神門から見て真正面に家都美御子大神を祀る証誠殿(第三殿)があります。ここから先は撮影禁止ですので写真はありませんが、妻入りの熊野造りの社殿の千木が内削ぎになっているのが不思議でした。
神門には大注連縄の上中央に今年の干支のウサギの大絵馬、両側に熊野大社の神使である八咫烏の注連縄が置かれています。
左に行くと高野山からの熊野古道 小辺路です。熊野川に出るまで少し歩いてみました。
* 拝殿は神門の左にあり、その真奥は熊野牟須美大神・事解之男神(西御前)と速玉之男神(中御前)を祀る平入り入母屋造り。確かに不可思議。
** 豊受神を祀る伊勢神宮外宮の千木が外削ぎなのが理解できなかったことを思い出しました。
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熊野本宮大社の鳥居です。大鳥居は旧社地にあります。
主祭神は家都美御子大神、神額には熊野大権現、スサノオです。
* 崇神はニギハヤヒ(大神神社の大物主)の復権を果たした。 熊野本宮大社はスサノオの子ニギハヤヒ(ヒノモト国建国の祖)を祀ったとする説を採りたい。
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熊野速玉大社の御神木「椰」。平重盛お手植えと伝わり樹齢800~1000年。天然記念物。梛は熊野神社の御神木です。
* 東京都北区志茂(赤羽)付近、今は荒川放水路になっている辺りは梛野原と呼ばれていた。志茂熊野神社には御神木の梛が育っている。マキ科ナギ属の常緑高木。
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熊野速玉大社の拝殿。主祭神は熊野速玉大神 (イザナキ゚) と熊野夫須美大神 (イザナミ)です。外削ぎの千木が見えている速玉宮の左に内削ぎの結宮があります。右側の上三殿に高倉下を祭神とする神倉宮が入っています。
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元宮である神倉神社からこの地に遷座して”新宮”と呼ばれた熊野速玉大社の大鳥居です。
神橋の太鼓橋と”熊野権現”の神額を掲げた両部鳥居の大鳥居。
右側は熊野川が直ぐです。
急な石段を登ってきて見えてきた拝殿の右側にあるのがゴトビキ岩です。
もっと上方から見ないとよく分からないそうです。
祭神は高倉下命で、拝殿の千木が外削ぎになっています。
* 高倉下命はニギハヤヒの子アメノカゴヤマ:天香山(大香山)の別名で、その子天村雲が磐余彦だとする説がある。
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神倉神社はゴトビキ岩 (天ノ磐盾) という磐座が御神体です。
熊野大神が最初に降臨した聖地で、ここから源頼朝が寄進した(1193) 538段の急な鎌倉積み石段 (史跡) を登らなければなりません。熊野古道中の古道だそうです。
鳥居は稚児柱が支える両部(稚児)鳥居です。
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祭神は熊野夫須美大神 (イザナミ)・御子速玉大神 (イザナキ゚)・家都御子大神 (スサノオ) 等で、主祭神は熊野夫須美大神です。
護摩木鉢の左に神使:八咫烏の像があり、御縣彦社で祀られています。
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熊野那智大社 の表参道、一の鳥居前から拝殿手前の二の鳥居を見上げました。
手水舎にも参道にも人影がありません。
熊野古道 (中辺路) を訪ねて那智の瀧に来ています。大門坂の杉並木は見事です。
那智の御瀧は熊野那智大社の別宮である飛瀧神社の御神体です。
* 滝の原点は箕面の滝。那智の滝を初めて見たのは60年も前。
もっと山深い印象が残ってる。
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アムステルダムの5本の環状運河の最も外側のシンゲル運河:シンゲルグラハト Singelgracht (1610-62) には運河の内側に26基の要塞(堡塁)があり、製粉所の風車が置かれていた。その内現存する2基の一つがデ・ホイエル(製粉所) の風車だ。1814年以降、1725年にはあった旧地から2基ほど北東になる現在地で稼働している。
欄干に ”夜明けの橋 Dageraadsbrug ” の表示がある (クザール・ペーテル通り) 。
ネオ・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式を組み合わせたピエール・カイパーズ Pierre Cuypers (1827-1921) の作品:アムステルダム中央駅 (1881-1889) 。アムステルダム国立美術館 (1876-1885) と同時並行的に建設された。「聖アンデレ十字:Ⅹ」3つがアムステルダムの紋章 。 2012.08.10.
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蜻蛉羽:アキヅハ がその名の通り美しく咲いていたので接写しました。大菊:管物:細管 の菊 (糸菊) です。
上に見えるのは大菊:広物:一文字の菊です。
新宿御苑 菊花壇展 2020 にて (11.10) 。
* アキヅはトンボ / 蜻蛉の古名。秋津とも書く。
蜻蛉羽はトンボの翅。昨日、東京グローブ座の植え込みに停まっている赤トンボを見かけた。
川之江の家でもトンボを見ることが珍しくなった。ギンヤンマやオニヤンマが家の中に入ってきたりしたものだが・・シオカラトンボ、ムギワラトンボを見た最後はいつだっただろう。
11月1日から15日までの新宿御苑 菊花壇展に今年も行ってきました (11月10日) 。
毎年新宿門を飾っている<大菊 兼六雪峰>です。勿論1株で、196?輪の花を咲かせています。
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5本の環状運河の最も外側のシンゲル運河 Singelgracht (1610-62) は1660年頃 (黄金の17世紀) にアムステルダムの外堀となり内側に城壁が築かれた (19世紀末には撤去) 。
シンゲル運河の内側から外側にあるアムステルダム国立美術館 (1885) の正面を見たところ (当時はここに要塞があり、運河は美術館の裏正面前に湾曲していた) 。ネオ・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式を組み合わせたピエール・カイパーズ (1827-1921) の作品。アムステルダム市立美術館 (1895) 、ゴッホ美術館 (1973) はこの後方 (外側) にある。
3連泊したホテル エセレーア Hotel Estherea からアムステルダム中央駅に出るのにシンゲル Singel 沿いに南下して、屈曲点のワイデ・ハイ通りから見たシンゲル (運河) 。次の橋がトラムの通るコーニングス広場。右にネオゴシック様式のフランシスコ・ザビエル教会。
シンゲルの内側に沿う1385年以前の外堀 (1884 埋塞) だったニーウェゼイス・フォールブルグワル通り Nieuwezijds Voorburgwal を通って駅に出た。2012.08.12.
中華人民共和国マカオ特別行政区
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シンゲル Singel は最も内側の環状運河。アムステルダムがこれを超えて拡大する1585年 (ネーデルラント連邦共和国成立) までは1480年以降外堀としての役割を果たした。前方に見えるパレイス通りに架かる橋を右に行くとアムスの中心のダム広場 Dam 、旧市役所・現王宮がある。旧アムステル川を埋め立てたダムラック通り Damrak を進めばアムステルダム駅だ。
右側 (旧市街) のホテル エセレーア Hotel Estherea に3連泊した。
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アムステルダムの語源となったアムステル川 Amstel に架かる木造の跳開橋:マヘレの跳ね橋すぐ下流で合流する新へーレン運河に架けられたワルター・スースキントの跳開橋 。木製の古い外観を持って架け替えられた新しい橋 (1972) 。
ワルター・スースキント WalterSüskind (1906-45) はナチス占領下に約600人の子供達の逃亡を助けたが、自身は犠牲になった。
アムステルダムの5本の環状運河の2番目がへーレン運河で、オランダ東インド会社設立の頃に建設された (1612) 。
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アムステルダムに今なお木造の跳ね橋 (跳開橋) として残されているマヘレの跳ね橋 Magere Brug 。伝統的な白い塗装の木製のダブルバスクル橋だ。観光用のボートは両脇の桁下を通れるので1日数度しか跳開しないらしいのだが・・。アムステル川の下流側から。
007シリーズ第7作「007 ダイヤモンドは永遠に (1971)」において、ボンドガールのジル・セント・ジョン Jill St. John とショーン・コネリー Sir Thomas Sean Connery が乗っているボートがマヘレの跳ね橋をアムステル川の上流側から通り抜けようとしているところ。50年も前のことだ。
ショーン・コネリー (1930-2020) は昨月31日死去した。合掌
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新宿3丁目で ”Go To Eat” を体験してぶらぶら帰宅途中、<K – shuttle>を見かけたので初めて乗ってみた (JR 新大久保駅前まで) 。新宿韓国商人連合会が無料で運行している(大久保駅・新宿区役所・新宿西口・都庁前・新宿南口・四谷3丁目・曙橋・東京女子医大・抜け弁天等)。
ここは職安通りと区役所前通りの交差点 (鬼王神社前) で始点。手前左に島崎藤村旧居跡、奥にある JR 山手線・中央線手前に藤村が妻と3人の娘を埋葬した長光寺がある。また、藤田嗣治の新(婚住)居兼アトリエはJR線の向こう左にあった。二人ともここからパリに脱出した (1913) 。
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アムステルダムでトラム (Tram 10 / サルファティ通り) に乗っていた時に出くわした。アムステル川に架かる Hogesluis 橋 (1662・1883・2012) のダブルデッキ型跳開橋部分。装飾された美しい古橋を350年後のこの時、復元供用開始したばかりだった。2012.08.10.
跳開橋が閉じ遮断機が挙がりかけている。右側一つ上流のニウウェ・アムステル橋もダブルデッキ型跳開橋部分があり、垂直に立った遮断機(4本の内)2本が見えている。右前方にインターコンチのアムステルホテル。
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レコレットの閘門 / サンマルタン運河 – 2 の横断歩道橋から クルーズ船の通過に支障となるグランジュ・オー・ベル回転橋 Pont tournant de la Grange-aux-Belles を見下ろしたところ。
閘門の下流端ゲートが開いて閘門内の水が流れ出たのが水面からうかがえる。遮断機が降り回転橋が回転を始めた。
回転橋が90度回転して左岸に平行の定位置に収まって、ロックを出たクルーズ船 ” CANAUXRAMA” が通過中。
この状態で上流に向かうクルーズ船 “Paris Canal” が下流左岸で待機中 (航路は右側通行) 。この後、レコレットの閘門 / サンマルタン運河 – 1 のように閘門に入る。
前方に、リシュラン歩道橋 Passerelle Richerand 、次のル・デュ回転橋 Pont tournant de la rue Dieu (通行中) 、アリベール歩道橋 Passerelle Alibert が見える。次のタンプル閘門 Les écluse du Temple は奥の緑:フレデリック・ルメートル公園 Square Frédérick-Lemaître の位置にあり、ロックを出るとメトロのバスティーユまで上空が塞がれた地下に入る。
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上りのクルーズ船” CANAUXRAMA” がロックを出た後、待機していた下りのクルーズ船 ”CANAUXRAMA” がロックに入ってきて停止したところをビシャ歩道橋 Passerelle Bichatから見たところ。
レコレットの閘門 / サンマルタン運河 – 1 を撮った横断歩道橋 Passerelle de la Grange-aux-Belles とその下に回転橋の グランジュ・オー・ベル橋 Pont tournant de la Grange-aux-Belles が見える。ゲートは閉じていて、まだ人が通行しているのが分かる。
これから上流側のゲートが閉じられ、下流側のゲートが徐々に開けられる。それから、船の航行に支障となる橋が回転する。
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サンマルタン運河にある閘門の一つ<レコレットの閘門 Les écluses des Récollets>の下流端ゲート。上流に上るクルーズ船 ”CANAUXRAMA” がロックに入り、ゲートが閉められて(上流側ゲートは開けられて) 船体が浮き上がっている状態。ゲートから水が溢れるようになればロックを出れる。
歩道橋 Passerelle Bichat (この下に上流側ゲートがある) と右岸のヴィルマン庭園 Jardin Villemin の四阿が見えてる。閘門の両側はマロニエのレコレット公園になっている。 2014.06.18.
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サンマルタン運河 (1825) の上のジュール・フェリー広場 Square Jules-Ferry (1924) の紅葉。チャンチン Cédrela de Cine だと思われる。
左方のレピュブリック広場からのレピュブリック大通りが運河を横切る。手前側が下流でバスティーユ広場に至る。
ジュール・フェリー (1832-93) は初等教育の無償化を実現した政治家の名。
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アフリカ分割の過程で生じたアフリカ南北のイギリスと東西のフランスの交差点での両国の紛争”ファショダ事件 (1898) ”で、フランスの司令官だったマルシャン Jean-Baptiste Marchand (1863-1934) の顕彰碑 Monument au commandant Marchand 周りの秋色。
カメラ側に旧植民地博物館:ポルト・ドレ宮殿がある。